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製鉄所から海軍工廠へ--初の軍艦「清輝」を建造

  3つのドックの位置関係。下から第1、第2、第3。それぞれ間にポン  プ小屋があり、両方で使えるようになっている(季刊「大林」より)。

明治4(1871)年に137メートルの1号ドック建造したのに続いて、
・明治7(1874)年に3号ドック(96m)
・明治17(1884)年に2号ドック(151m)
と建設され、艦船大型化の流れの中で
・明治38(1901)年4号ドック(240m)
・大正6(1916)年5号ドック(324m)
・昭和10(1935)年6号ドック(366m)
・・・と作られていく。
 
完成以来まもなく150年になろうとする1号ドックから90年が経とうという6号ドックまで、現在も使用されており、特に石づくりの1-3号ドックは当時の日本の技術を検証する国宝級の産業遺産といっていい。
 
なお、ドックの最大の課題は、給排水時間である。最も長い2号ドックを真ん中に配置したのは、もっぱら両側にある1号、3号ドックの排水ポンプを活用して、長いドックの排水効率を向上させる工夫である。
 
横須賀製鉄所はヴェルニーの指導で作ったフランスの技術を集めた最新の造船所で、日本人が設備を使いこなせるように、先行して"横浜製鉄所((五) 横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場)を作り、横須賀製鉄所で使用する設備を製作しながら、フランス語と機械加工技術・造船技術を訓練した。
 
明治4(1871)年、横須賀造船所と改名。翌年、明治5(1872)年には海軍省主船寮が主管になる。
 
ここで、待望の軍艦第1号「清輝」(せいき:897トン、全長61メートル)を完成。清輝は西欧の軍艦には及ばないが、それでも自前で軍艦を建造できたのは大きな成果で、進水式には明治天皇も臨席している。
 
この船は日本の艦船として初めてヨーロッパへ遠征している。技術力を誇示するためのお披露目というところか。
 
明治8(1875)年には、海軍がイギリスの指導を受けるようになり、軍政がイギリス式に変わったことで、ヴェルニーを解雇。イギリス人技師2名を採用する。
 
こんな中で、明治9(1877)年2月には砲艦「磐城」(1464トン、350馬力)、3月には国産第3艦「天城」を進水させる。天城は938トン、720馬力、乗員160名。
クルップ式の砲門を備えた3本マストの国産初の巡洋艦だった。
 
フランス人技術者なしで、軍船を建造できるまでになっていた習得力の速さは注目に値する。
 
この後、造船所は、明治17(1884)年には横須賀鎮守府直轄に、そして明治35(1903)年には横須賀海軍工廠となり、大型軍艦の建造に一直線に進む。

■効率の悪さがネックで戦争に間に合わない
明治17年には横須賀造船所を鎮守府直轄とし、錬鉄・鋳造・旋盤・製缶・組立工場の拡充・整備を図った。
 
世界の戦艦が、木造艦から鉄骨木皮艦、鉄製艦、鋼鉄艦へと急速に変化しており、それに対応した処置だった。
同時に、造船所条例が制定され、横須賀造船所は、海軍の艦船の建造・修理・艤装を主目的とすることが決められた。
 
こうして、建造能力が向上し、戦艦づくりに専念することになり、明治20(1887)年には鋼鉄鉄皮の砲艦「愛宕」(621トン)を進水させ、水雷艇や補助艦艇などを建造。
さらには、鋼製の海防艦「橋立」、巡洋艦「秋津洲」を完成させるが、橋立の建造には6年間、秋津洲の建造には4年間と、長時間を要するという非効率ぶりだった。
 
海軍としては、折から始まった日清戦争(明治27年(1894年7月~95年3月))などでも、自前の戦艦を使いたかったが、非効率な建造ペースゆえに生産が追い付かず、日露戦争(2004年2月~2005年9月)に至っても、主力艦船は輸入戦艦に頼らざるを得ないというありさまだった。
 
日本が世界に認められるきっかけとなった日露戦争の日本海海戦の主力艦船、旗艦「三笠」をはじめ、富士・八島・敷島・朝日・初瀬はすべてイギリス製で、三笠は15,140トン、速力18ノット、主砲に12インチ砲4門を備えた当時の世界最新鋭艦で、技術的にも、日本との格差が大きかった。
 
それにしても富岡製糸場や横浜開港で見せた機動力のあるプロジェクト管理力はどこへ行ってしまったのか、臨機応変な対応を拒む海軍という組織の宿命かもしれない。

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