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序009.貨物路線の延伸と横浜港駅の誕生

≪2.生糸貿易と鉄道の開通003
新橋-横浜の鉄道は、その後、近代化とともに大きく変化していきます。とりあえず生糸貿易を優先して新橋-横浜間に鉄道を敷設しました。が、国の大動脈である大阪に向けて鉄道を延伸したいと考えたときに、桜木町駅へは北から南に進む形でレールが敷かれていて、そのままでは丘陵に阻まれて東海道の方向(南西から西の方向)にルートを延伸することは不可能でした。
さらに、産業・貿易の発展とともに京浜間の貨物輸送量が急増して、新橋-横浜間の路線1本では需要を満たすことは難しくなっていました。
(1)東海道線を大阪に向けて延長するために、路線、駅の位置を変更する
(2)貨物輸送が増えて新しい路線を敷設する
事が求められたのです。
もともと新橋-横浜路線は東海道に沿って大阪まで延伸することが考えられていましたから、当然の流れなのですが、実は大きな問題がありました。新橋から横浜へは港での貿易振興を目指して最短距離を結んだので、いざ、そこから先に大阪方向に線路を伸ばそうとすると、なかなかうまくいかないのです。
後になって、
 ・横浜駅でスイッチバックさせて、南に向かう線路を西に方向転換させる、
・東海道線として延伸するために駅の位置を変更する
などの処理が必要になってしまったのです。この件は、桜木町駅コンコースにある歴史展示物の中に詳しい資料がありますので、次回ご紹介しましょう。
 
東横浜駅、横浜港駅の誕生
 当初は移動の動脈にと考えて敷設された新橋-横浜間でしたが、横浜港での輸出/輸入が増えるとともに、貨物の輸送量が急激に増え、従来の路線だけでは両方の輸送を賄いきれなくなってきます。
そのため、1915(大正4)年になると、桜木町を旅客だけが利用する駅とする一方、新たに貨物用の路線を敷設し、貨物を扱う駅として、操車場機能(転車台・扇形庫など)を持って初代横浜駅=桜木町から分離して「東横浜駅」として独立させました。(汽車道)
赤レンガ倉庫などのある地域を新港地区と呼びますが、それは、従来の大桟橋では荷扱いが間に合わず、新しく岸壁・ふ頭・倉庫を新設したために名付けられたものです。そのため、貨物用の線路を横浜駅(桜木町駅)から赤レンガ倉庫まで延伸し、税関も設置して「横浜港駅」を赤レンガ倉庫1号館の北側に新設しました。これが今、遊歩道として利用されている汽車道です。新港埠頭・横浜港駅の貨物取り扱いの拠点となったのが東横浜駅で、蒸気機関車などの転車(Uターン、方向転換)がこの駅の操車場で行われました。
横浜港駅は基本的に貨物駅でしたが、新港からは外国航路の客船なども出港するようになり、外国船に接続したボート・トレインを走らせるようになりました。東横浜駅は、いまはなくなってしまいましたが、場所は桜木町駅みなとみらい側の駅前ロータリーのあたり一帯が使われていました。昭和56(1981)年にみなとみらい21の開発が行われるに際して駅が廃止され、貨物船の線路のみが京浜東北線と接続されて残されています。

東横浜駅からふ頭に向けて延伸された汽車道。
いまは並行してロープウェイYOKOHAMA AIR CABINが設置されている。

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