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(6)漢人にとって「公」とは、私腹を肥やす手段

■官吏のワイロは伝統芸
 シナでは官吏に登用されるには厳しい「科挙」という登用試験に受からねばならなかった。科挙に受かるのは極めて珍しいほどの難関であり、万一登用されれば出世は保証される。そのため、親類に優秀な児童が一人でもいれば、親戚がこぞって入れ込み、何とか科挙に受かるように支援する。
 物理的、金銭的、精神的にも入れ込む。長じて親戚の一人でも科挙に受かって官吏に登用されたりすれば、任地にまでそろって同行し、任務にまつわる業務に参加させてもらって、一緒に甘い汁を吸おうとする。
 地方公共団体は独立採算制で、担当業務で手数料・マージンを吸い取り、いかに金儲けをするかは、担当者の才覚だから、親戚に代理店をやらせて中間マージンを吸い取り、手数料のおこぼれにあずかり、ワイロを懐に得て金儲けをしようというのが、シナ時代の官吏の才覚であった。

 その伝統は、現代にも脈々と受け継がれているようだ。
 中国に進出した企業の駐在員にとっても、許認可の問題で申請するようなケースでは、現地で採用したコンサルタントに任せる以外にないとこの部分についてはお手上げのようだった。

 習近平主席は総書記になって以来、ワイロの習慣をやめさせようと躍起になってきた。
 今年に入ってからも、中国共産党は腐敗や汚職の摘発を担う中央規律検査委員会の全体会議を開き、習近平主席は、中国国内の汚職について「依然として深刻で複雑だ」と危機感を示した。反腐敗闘争を徹底させていくと改めて表明したのである。

 習指導部は2012年の発足当初から共産党幹部の反腐敗運動を重視してきた。
中国の軍隊は、陸海空の3軍のほかにロケット軍があるのだが、そのロケット部隊の大将以下幹部がそろって更迭された。予算のかなりの部分が調達の意思決定の各段階でポケットに入れられたとみなされ、処分されたらしい。
しかし、ワイロが伝統芸だと岡田英弘は言う。いかんともしがたい。

 ■地方のあらゆる官庁は独立採算制である

漢人にとって公とは、私腹を肥やすための手段である。
清朝の時代までは原則として官吏に俸給はなく、自分の地位を利用していかに利益を得るかが官吏の腕前とされた。
その伝統は今でも残っており、実入りのいい窓口についた者はあらゆる手を尽くしてコミッションを巻き上げる。
これは正当な報酬であり、 口利きをした者が一口乗ることは、中国人にとってごく当たり前のことである。
ただし、一時期日本人の公私意識をまねたことがあり、そのときは賄賂を取らなかったとされるが、それは表向きのことである。
シナの独特のやり方で、地方のあらゆる官庁は独立採算制である

(岡田英弘著作集Ⅳ P.104)

 役職・職位によって、それぞれサービスをする範囲が決まっており、サービスを供与したらその分だけコミッションを取るという仕組みが伝統として出来上がっているのであれば、官吏がワイロをもらうことに抵抗がない、というより当然の儲け口と考えて袖の下に励むのはうなずける。

中国では「ワイロは伝統芸」と言われてきたが、かつては官吏に給料がなく、自分の采配次第で手数料を稼ぐのが当たり前で、どれだけ稼ぐかで有能かどうかが図られた、と聞いてなるほど、役人のワイロは歴史的なものなのか、と理解した。悪いという意識がないのである。軍の予算をいくら確保しても、その何割かが役人のポケットに消えてしまうのではその分、材料費を削るほかなく手抜き工事(おから工事)が行われるのは当然ということになるかもしれない。

■三峡ダムの建設予算の1.7%が中間で消えた
 揚子江の中流にある三峡ダムは電力供給だけでなく治水対策もかねて1993年に着工し、2009年に完成した中国最大、いや世界最大のダムだ。建設にあたって予算は2000億元が計上されていたが、そのうち34億元が中間搾取で消えてしまったと言われている。
 34億元/2000億元、割合にしてわずか1.7パーセントにすぎないが、もとの金額が日本円で4兆円である。着服された額も34億元、日本円で700億円近い。大変な金額である。着服行為だけで、そこそこのダムが一つ作れそうな一大事業である。
 腐敗撲滅という名目でこの10年間に粛清された軍幹部は13,000人以上にのぼるという。習近平総書記が腐敗や汚職の摘発に躍起になるのはわかる。しかし、果たして伝統芸はなくせるのだろうか。

 最近、新宿・歌舞伎町などのやくざの世界に、中国産のピストルが大量に出回っているという。軍用の兵器工場でピストルを大量生産し、余分に作って一部を日本のやくざに横流しする、などというのは彼らにとっては、おまけの業務範囲になっているらしい。
 中国には伝統的に「上有政策、下有対策」というよく知られた言葉がある。「上に政策あれば、下に対策あり」とでもいうか。政策や法の抜け道を見つけて、庶民はうまく潜り抜けているということだが、これは「公」の立場でも同様で、上司の指示に対して部下の対策がある、役人の収賄に対しては出入り業者の贈賄があるということでもある。
 役所の許認可の意思決定各段階ごとに「公権力が商品化されている」と言い換えてもいい。現実には、まじめに業務の励んでいる担当者が多いのだろうが。

 こういうことを言えば言うほど、中国はいったい近代国家として機能しているのだろうかということが疑問になってくる。

(岡田英弘著作集Ⅳ P.104)

と岡田もあきれながら書いている。
 果たしてこれから、変わっていくのだろうか?


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