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(8)日清戦争――日・シナ関係の歴史的大逆転

  私たちから見る日中関係は、日本(倭)が歴史始まって以来、長い間、先進国として中国から学び手本として多くのことを吸収してきた。シナから見れば中国大陸(黄河中下流域の中原地域)を制した朝廷が自らのことを「中華」と呼び、長い間、自分たちは世の中心にあるとしてきた。
 
 周辺には北には夷狄(いてき:東には東夷(とうい)、北に北狄(ほくてき)、西に西夷(せいい)、・西戎(せいじゅう)、南に南蛮(なんばん))という野蛮な敵がいて、服従させて貢がせる相手であった。志賀島から出土した金印「漢委奴国王」はシナの皇帝が倭国の王を任命した印である。
 
 しかし、19世紀になると、明治維新をへて西洋文明をいち早く取り入れて近代化した日本に追い越されるという世界史的な大逆転現象が起こった。
 常に上の立場にいて、遅れた国と蔑んでいた日本が先を走っていると知ったシナは「まさか」と驚いた。そのきっかけになったのが1894(明治27)年の日清戦争だった。近代化して最強と考えていた自慢の北洋艦隊が日本の戦艦に敗れたのだ。

■シナが「日本文化圏」に入る?

日本は長くシナ文化圏にあった。ところが、それが逆転して、シナが「日本文化圏」に入るという 世界史上の大事件が起こった。日清戦争における清国の敗北である。(P.483)
 
なにしろ、わずか30年前に欧化政策を取り入れ、近代化の道を歩み始めたばかりの日本に、清では最新の西洋式軍備を備えていた李鴻章の北洋軍が壊滅させられたのだから、ついに清朝も近代化の必要性を認めざるをえなくなり、海外に留学生を派遣して官吏に登用し、やがてシナで1300年にわたって続いてきた科挙試験は廃止された。シナはシナ以外の国々の影響を受けざるをえなくなって独立性を失い、世界史の一部、それも日本を中心とする東アジア文化圏に組み込まれた。そして、10万人を超える日本留学経験者が持ち帰ったものが、現在の中国文化の基礎をつくった。なかでももっとも根本的なのは、日本語がシナの言葉に与えた影響だった。(P.483)

「岡田英弘著作集」Ⅳ P.483

 ところが残念なことに、このことは日本、中国両国民にそのままには理解されていない。理解どころか、知られてさえいない。中国の現政権にとって、統治するためにはあまり知られたくない事実なのだろう。それに合わせて日本側からも、表明することを避けているのはどう考えたらよいのか、嫌がることを言うことはない、ということだろう。
 私は特にそれを大声で主張する気はないが、お互いに正しい関係を築くためにも、もう少し何とかならんか、という思いがする。あまり強く主張すると、箸を持つ側の翼だけが強そうに思われかねないので、「正確な歴史」認識の違いということにしてこのあたりでやめておこう。

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