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八重歯を削られて、「側から見れば障害でも本人からしてみれば障害ではない」を実感した話

結論から言えば、八重歯を思っていたよりも多めに削られた、というお話。

なぜ八重歯を削ることになったのか、そしてなぜ削ったことによって「側から見れば障害でも本人からしてみれば障害ではない」を実感したのかについて説明する。


私の両八重歯は人より大きく、少し前に出ている。私はこれを気に入っていて、自分のチャームポイントだと思っている。しかし、疲れが溜まった時は、特に出ている右側の八重歯が上唇の裏に刺さり口内炎ができる。そしてその八重歯は常に上唇の裏についている状態なので口を上げるたびに引っかかってかなり痛い....。

このような出来事が半年に1度ほど起きていた。その度、「次に歯医者へ行ったときには削ってもらおう! と決心して忘れる」を5年ほど続けていた。そしてついに先日、上唇の裏側に口内炎が出来た直後にたまたま、歯医者の予約が1ヶ月後にあったのだ。


歯医者当日、その頃にはもう口内炎は治っていたが削ってもらうことを覚えていた。なんならその日のスケジュールに「歯医者 八重歯削ってもらう」とメモもしていた。
担当の歯科衛生士さんに「八重歯上唇の裏にできる口内炎に刺さって痛いんです。何か削るとか出来ないですかね?」と相談して、お医者さんに伝達してくれた。他の人の診療を終えた後にお医者さんが来た。
お医者さんは私の椅子を傾けながら「矯正はしないんですか〜?」と微笑みながら話しかけた。『あっ、そうだ。ここは矯正を看板にしている歯医者だった。そりゃあこんな八重歯見たらしたくなるよな』と思いつつ、この八重歯はチャームポイントなので「いや〜....(笑)」と言って流した。
「それじゃあ削りますね〜。」と言いながらドリルを八重歯に当てられた。そしてその当てられる時間が思いのほか長かった。「あれ、終わらない。めっちゃ削ってないか....?」さっき矯正を勧められたことから想像が広がった。この歯医者では矯正を勧めている。なので私の歯はその格好の餌食。でも私自身はこの八重歯が好きだし、矯正は絶対にしたくない。と、いうことは、私とお医者さんの八重歯に対する価値観は正反対である…。私は八重歯の先を少し丸くして尖りをなくしてほしいだけだった。だけどドリルが描くカーブはどんどん大きくなっている。まずい、削られた歯は取り戻せない。

いろんなことが思い浮かんだ。中学生の時友達と笑いすぎて上唇が八重歯に引っ付き、口が閉じられなくなって、またそれで爆笑したこと。「この八重歯は俺そっくりだ」と、父親が口をイーッとしながら嬉しそうに見せてくれたこと。高校の友達に八重歯が羨ましい、と言われて嬉しかったこと。外国では八重歯が好まれてない、というネット記事を見て心底驚いたこと。

「嫌だ、やめてくれ」、と思ったが、私はこの先生を技術が高い人だと思っているので「もしかしたら口内炎に当たらないようにするには医学的にこれくらい削らないといけないかもしれない」、と施術を否定することが間違っているとも思った。もっと最初に細かく言ってもおけばよかった。でもここは歯医者だもんな、八重歯が尊重されるわけがない。彼らからみれば害でも私からすればこの歯は思い出がつまった大切な歯なのである。また、先日会った盲人の妹を持つ友人の言葉もよぎった。「私は妹のことを障害者だと思ってたけど、妹は自分のことを全く障害者やと思ってないねん。本当に凄いな〜と思ってる。」


施術が終わった歯は他の歯よりも小さく丸まくなっていた。
私の知っている八重歯ではなかった。


今まで障害学を勉強してきて、障害者と呼ばれる人が障害と呼ばれる症状等について「治せるとしても治したくない」という気持ちを持つ人がいることを学んだ。そして医学モデルという「症状を排除することによってその人を障害者では無くならせる」という考えよりも、社会モデルという「社会を変えることによって彼らが障害と感じることを無くす」という考えが広がっている。
今回このような経験をして、「側から見れば障害でも本人からしてみれば障害ではない」ということを実感した。悔やんでも歯は元に戻らないから受け入れるしかない、と思っているが、やはりあの時、事前に自分の気持ちをしっかり伝えなかったことをとても後悔している。もしこれを読んで「たかが歯ではないか」と思ったのならそれも「側から見ればただの歯でも本人からしれ見れば大切な思い出の詰まった歯」なのだ。

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