村上春樹「職業としての小説家」の好きな部分


前にも書いたけど、たぶん昨年最も読んだ本の一つが、村上春樹の「職業としての小説家」。
この本の中から、気に入った部分を、定期的に引用していこうと思います。

「職業としての小説家」は、村上春樹が小説について、合計12回の様々なテーマについて語ったもの。
読者に語りかける形で書かれているので、読みやすい。さらに、伝えたい内容と具体的なエピソードのセットが非常に内容をイメージしやすくしている。小説好きの中高生などにもオススメできる、文章訓練にもってこいの一冊なのではないか。

ところで、これまでnoteのアプリを使って来て本当に良かったな、と思っている。
何かしらの言葉を、自分の言葉にしろ引用にしろ表現することによって、思っていることがはじめて明確になることが分かった。また、好きな文章の一節を抜き取るだけでも、その部分の魅力が改めて実感できる。
自分なりのルールみたいなものが浮き上がるとともに、厳格化するというか。書いたものの内容が、ルールとなって、効力が倍化される感覚というか。
逆に言えば、あまり軽率な事を文章にするべきではないと思うし、それは本当に恐ろしいことだと思う。実在の自分で責任のとれる範囲と大きく乖離したことをやってしまう(やれてしまう)恐怖。
今のヘイト活動をやっている人たちは、こういう危険な行為を平然とやっているように見える。Twitterなどで目に見えない他者を攻撃する人もそう。
もしこういうことをしたら、間違いなく自分(表現した人)の精神に影響を及ぼすし、かなり尾を引くんじゃないか、あまりに軽率なことをしてしまっているんじゃないか、とニュースを見ていて思う。

話が逸れました。

さて、今日の引用は、
第四回 「オリジナリティーについて」から。

あらゆる表現者がおそらくそうであるように、僕も「オリジナルな表現者」でありたいと願っています。しかしそれは先にも述べたように、自分一人で決められることではありません。僕がどれだけ「僕の作品はオリジナルです!」と大声で叫んだところで、あるいはまた批評家やメディアが何かの作品を「これはオリジナルだ!」と言い立てたところで、そんな声はほとんど風に吹き消されてしまいます。何がオリジナルで、何がオリジナルではないか、その判断は、作品を受け取る人々=読者と、「然るべく経過された時間」との共同作業に一任するしかありません。作家にできるのは、自分の作品が少なくともクロノロジカルな「実例」として残れるように、全力を尽くすことしかありません。つまり納得のいく作品をひとつでも多く積み上げ、意味のあるかさをつくり、自分なりの「作品系」を立体的に築いていくことです。

引用していて分かるのは、
村上春樹のこういう「シンプルで分かりやすく、(たぶん)正しいこと」が自分は好きだ!
ということ。
「うだうだ言わずにがんばろうぜ!
自分が納得できるものを残してりゃ、
あとは時間が証明してくれるさ!」
みたいに励ましてくれているように感じる。
もちろん、現実が本当にそうシンプルにいくかは別問題である。
そのとき、気分が良くなることも大事。

ちなみに、裏表紙にある作品紹介には
「読者の心の壁に新しい窓を開け、新鮮な空気を吹き込んできた作家の稀有な一冊。」
と書かれている。
おっしゃる通り、読者は心の中にフレッシュな空間が生まれているのを実感するのだと思う。
言葉は人を励ますことができる。

代わりに、いつだったかYahooニュースで見たように、ある特定の人種へのヘイトメッセージを、言葉にして送ることもできてしまう。
ただ事実だけが述べられている記事だったけれど、私はたぶん、本当にこわい、と思ったのだと思う。鳥肌が立つような感触がした。
別に自分は、人道的な人間でも、まともな人間でも、ない。
だから、もうちょっと倫理的に生きましょうよ、なんて言うつもりは全くない。
ただ、ヘイト活動がやっていることは、ナイフを振り回したり銃を乱射したりしていることと本質的に全く変わらない行為だと思う。
人を傷つける自己本位の行動。
傷つくのが体か心か、癒えるのにどれだけの時間がかかるのか、の違いに過ぎない。
そんな危険な行動を自分がしていると自覚しているのか、
そして、その行動が自分自身に及ぼす影響は、たぶん、ナイフや銃の場合と変わらないと分かっているのか、と疑問に思う。

うーん、ヘイトメッセージの記事を読んだのが、尾を引いていたのかもしれない。
でも、あくまで言いたいのは、言葉は人の心に新鮮な、清々しい空間をもたらすこともできる、ということ。
逆に濃縮された人間の膿のようなものを表現するものもある、ということ。
ヘイトメッセージは、現代の呪いなんだろうな。
適切に呪いに対応する術を身につけないといけない。言葉による治癒行為のようなイメージ。
だから誰がなんと言おうと、表現行為を制限することだけは許されない。
誰になんと言われようと、人間は自由に表現をする権利がある。
もちろん、それは言葉が現実に及ぼす影響、他者への配慮を前提として成り立っているのは言うまでもない。

言葉を素敵に使えるようになりたい。
素敵に、繊細に、大胆に、自由に。

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