情報リテラシー論#13

本当は、小室哲哉の音楽と宇多田ヒカルの音楽の違いについて書こうとしたが、記事にはあまりにも彼らの音楽について勉強不足であった。

このテーマについて関連がありそうなところを私なりに考察したことを書く。

昨日12月24日、 M -1グランプリが開催された。

M -1グランプリについては、上記のwikipediaを参照してください。

19代目王者となったのは、令和ロマンというコンビ。
以前、令和ロマンの高比良くるまさんが、popeyeの記事で特集されていて、お笑い芸人なのに、なんか変にカッコつけている人いるなーと思って、少し注目していた。

M -1グランプリでの彼らの漫才は、4分間に綺麗に構成されていた。
緩急、間の取り方、言葉を発するテンポ、表情、とてもよかった、秀才だなと感じた。

今回書きたいのは、令和ロマンのことではなく、今生きる私たちにウケるものとは、どんなものだろうということだ。
それが、お笑いを見ていて、少し気づいたことがある。

私は、M -1グランプリでのヤーレンズという芸人さんの漫才に違和感を感じた。
審査員は高得点を入れていたので、面白かったのだと思うが、個人的には、何か”違う”という気持ちで、はまらなかった。

それは、なんだろうと、友達に相談してみると、
それは、人(ニン)がある漫才が好きなんじゃないのかなと言った。

ニンとは、その人本来が持っている個性・気質のことを言うらしいです。


私の今思いつく中で人がある漫才をする芸人さんは、錦鯉 チュートリアル ブラックマヨネーズ、モグライダー があげられます。

それに対して、ヤーレンズ、インディアンスは、どこかを面白いキャラクター取り繕っている感じがして、私はあまり好みではないです。キャラを演じている感じがある。


そこで、取り繕わない美学
が、今後、大切になってくるのではないかと思っています。

私が考える、取り繕わない美学を体現している有名人は、
藤井風、菅田将暉があげられます。

画像でも映像でも、それがフェイクであるかどうか見分けるのが困難になってきた今、私たちは嘘を無意識的に嫌っているのかもしれません。

小室哲哉の音楽は、彼が作ったものを、誰か別の人に歌わせています。
歌っている人たちは、その音楽を着ているだけ。

宇多田ヒカルは、自分で作詞作曲から編集までします。宇多田ヒカルが歌うものは、本当に自分のものであります。


※小室哲哉の音楽、ヤーレンズ、インディアンスを批判しているわけではありません。



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