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ネット時代に生きる事が出来てよかった

ネット時代にいる事が面白いものだと思う時がしばしばある。自分の名前を入れて検索すると色々と今までした仕事が出てくる。始めて取引する会社をネットで調べることも良くあることだ。
今日4月5日をネット検索すると。
「よ(4)ご(5)そう」の語呂合わせから、衣料用洗剤のアタックが30周年を迎えたことを記念して2017年に「よごそう」の日と花王株式会社が制定したそうだ。1871年に男性の散髪が許可されたことで、女性も髪を切る人が続出しました。これを受けて1872年4月5日に、東京府は女子の断髪禁止令を出したと検索記事が読める。他にもいろいろと検索結果が出てくるけれどもいずれも私が記憶にない様な子供の時のことだ。その中でも実経験とだぶるのは
1968年4月5日にアメリカから小笠原諸島を日本へ返還する協定が締結されました。この小笠原諸島返還記念日は、戦後日本の史実の中で、沖縄返還日とともにかんがい深い日だ。返還直後の沖縄は、まだアメリカ時代の面影が至る所にあった。小笠原諸島は、この日を境に日本となり私もテレビ取材で海洋・水中撮影の番組を作ることが出来るようになった。小笠原には取材で数十回行った。今でも知っている人が何人かいる。東京から当時は27時間と海外に行くよりも時間がかかる東京都だったが今は小笠原丸がスタビライザーも装備し早い航行が出来るようになり24時間になっている。小笠原では、道路もほとんど主要な部分以外にしか整備されておらず、それが自然環境を保護することにもつながっており海から船で行った方が早いビーチも数多い。今は、父島から船で簡単に行ける南島なども環境保護団体や自然環境保護の名のもとに自然環境保護の案内人がいないと入れなくなっている。今まで、いろいろな海を回ってどこが一番いいと聞かれると私は、「小笠原諸島」と答えるようにしている。特に母島や北の島は人が少ないこともあり自然がそのまま残されているので好きだ。戦前に小笠原諸島はアメリカの捕鯨基地となっていた歴史もある。主に食用ではなく油を取るための捕鯨だった。私が良く通っていた頃の小笠原諸島は、診療所が一つしかなく医療が行き届かない島だった。この問題は、日本の離島全般に言えることだ。緊急を要する病気の人は唯一の緊急事態に対応してくれる自衛隊の水上飛行機にすがるしかない。離島に住むことが、健康でなくては住めないのと何かあった時には、死ぬ覚悟を決めなければ住むことが出来ないと思わされたのも記憶に深い。当時硫黄島に飛行場を作り父島までヘリコプターと飛ばしたり兄島に飛行場を作るなどの計画案もあったのだが、いまだに小笠原丸が唯一の交通手段になっている。離島に住む人には、どうか健康でいていただきたいと願いたい。


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