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「呆然とする」気持ちから知る自分のこと

「気持ちってあるんだよ。」
「気持ちっていうのはね。」

目に見えないものことを学び始めて、10年経つ。
かつてのわたしが「気持ち」だと思っていたことは、ほとんどが「思考」だった。欲求や命令を「気持ち」だと思って生きていた。

それくらい無知だった。

そして10年経った今。
あぁ、気持ちってほんと大事だわ。
感じて生きるって大事だわ。
わたしが感じていることにわたしが興味持つって大事だし、幸せだわ。

そんなことを実感している。


今日の気持ち

―呆然とする―
自分が如何に「行き当たりばったりの人生」を生きているかを知った昨日。
一夜明けて、仲間とそのことについて話していた時のこと。
わたしはよく「そんなわたしもいていいやん。」という表現をする。そして案の定、今日のわたしも「行き当たりばったりのわたしもいていい。」と表現していた。
すると目の前にいたDスケが、「そんなわたしはいちゃだめだって思ってるやん。」と笑いながら言う。

ほんとや。

いてもいいってことは、本当はいて欲しくないってこと。いていいのであればわざわざ「いてもいい」なんてことは言わない。

それが明るみになった瞬間、わたしは呆然とした。
Dスケが「どうしたと?何を思いよると?」と言うのに対し、「呆然としてる」と言った自分の言葉がしっくりきすぎて、「呆然としてるんよ。」と2度くらい口にしていた。

今日のバグを見つけた瞬間の気持ちは、「呆然とする」だった。

あまりに腑に落ちたので、その後さっそく別の仲間にシェアした。
「だってさ、『Y子がいる』『Yッピもいる』じゃなくて、『Y子もいていいよ。』『Yッピもいていいよ。』って言ってんだよ。どんな気持ちが湧く?ひどくない?」
とケラケラ笑いながら、自分の気づきを嬉しそうに話していた。

一夜明けてもなお、行き当たりばったりなわたしはいてはいけないと言っているわたしがいることを知って愕然としていたが、事実そうしている自分を知って「ほんとだわ。」と呆気にとられながら、最後はもう笑えてきた。


「気持ち」は、自分の潜在意識を知る手立てになる。いくら考えて行動していてもそれが自分の欲求と合っていなければ、望んだ結果にはならない。「気持ち」は、潜在的にある自分の欲求(心から望んでいること)に気づかせてくれる。

「呆然とする」くらいわたしは、真剣に自分を慰め続けていたのだ。
わたしがしたかったのは、「行き当たりばったりのわたし」を慰めることではなく、「行き当たりばったりのわたし」に耳を傾けること。

Dスケと話しながら目の前でやっていた仕事も、「うわっ、これも行き当たりばったりにならないようにやっているわ!」と気づく機会になった。
恐れの方ではなく、希望に心を向けると、「あぁ、わたし明日キッチンで楽しみながら仕込みをしたいんだ。パンとスイーツ食べた人が幸せになるようなもの作りたいんだ。日曜日のイベントも楽しみたいんだ。」と、自分の欲求がムクムクと顔を出してきた。

楽しむ余裕を生むための段取りをしたいという本来の望みを知ったら、気づけば仲間にシェアをしながらすっかり抜けていた準備をし始めていた。


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