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自分のこと知りたいって心から湧いたのは初めてかもしれない

「今日の1枚」は、届いて嬉しかった本。
クリシュナムルティの「子供たちとの対話」という本が手元に届いたので、早速ビブリオマンシーをしてみた。

今日の足つぼマッサージ

・基本(副腎~膀胱)
・全体
キリキリと胃が痛む朝だった。
昨日は脾臓のしこりが気になり、第3チャクラのことについて、〈根源的な恐れの中に「拒絶、批判に対する恐れ」というのがある〉という記録を残していた。
昨日のnoteを読み、「おいおい待て待て!それじゃあ、一歩も前進していないじゃない。また同じよ。」とメッセージをくれた人がいた。

結局のところ、誰かを自分のテリトリーに入れることを恐れ、1人でいないとリラックスなんてできないわたしで居続けることを選んでいることを教えてくれた。

頭で理解してもなお、まだ受け入れられないわたしがいたのだろう。抗うわたしがいることも認めつつ。
「いつでもどこでも誰とでも、自然体のわたしでいたい。」という自分の欲求があること、そんな人で溢れる世界を思い描いたときに胸が暖かくなる自分がいることも認めていくうちに胃の痛みは治まった。

今日のビブリオマンシー

Q.― 魂は死後も生きつづけるのでしょうか。
(中略)
死は知られていないものです。そして、重要なのは、生きているうちに知らないものについて知ることです。

「子供との対話」J.クリシュナムルティ

魂が死後も生きつづけるかどうかを知ることが重要なことではなく、死とは何か?生きている間に考え、感じているうちに、死とは何かを見いだしうるのだと伝えています。

わたしは、いつも「それがどうなるのか?」にばかりを気にして、「それ」が具体的にどういうことなのか?について考えてこなかった。

例えば、誰かと付き合うにしても、「付き合う」ということが自分にとってどういうことなのかを考え明らかにすることなく、「ただ恋心のようなものがあるから、一緒にいるもの。」としていた。
だから、一緒にいることが大事になってしまい、そのプロセスでぶつかることを避けがちだったし、そもそも互いの違いを知ろうともしなかった。
一緒にいつづけることが大事だから、壊れないように必死だった。それは窮屈だったし、苦しかった。

今は、そもそもわたしにとって付き合うってなんだ?どういうことだ?、どんな人と生きていきたいか?どんな自分でありたいか?と、自分が知らない自分のことを知る機会がある。

昨日知ったのは、わたしは人と一緒にいるときに、リラックスしていないということ。結婚生活も好きなように行動はしていたけれど、体に力が入りっぱなしだった。相手の言うことをきくわけでもないのに、人の目を気にしてばかりいた。

人と一緒にいてもなお自分が好きなようにする、リラックスして過ごすとしたら?なんて考えたこともなかった。

これもわたしにとっては条件が揃えば叶うことにしていた。相手が𓏸𓏸だったら、とか、環境がこうだったら、とか。
わたしがわたしをリラックスさせるための協力など微塵もしたことがない、それどころかやはり考えにも及ばなかった。

昨夜、わたしの投稿を読み、連絡をくれた彼女は、わたしが知っている人の中で誰よりも自然体で生きている。
彼女は、自分がより自然体で生きるための環境をつくることに日々努めている。自分の枠を自ら拡げつづけている。
昨日は、そんな彼女の話を聴きながら、「あぁ、わたしがわたしのためにわたしに協力しよう。」そんなことを静かに腹に決めた瞬間があった。

心底ほっとした。

誰かが傍にいてもなおわたしらしくいる時間を増やしていくことに協力するのだと思うと、相手がどうかが重要なのではないという意味を少し理解した気がした。

わたしがリラックスしてるときってどんなときだろう?人がうちに来てもわたしらしくいるなら、どんなふうに過ごすだろう?
自分のこと、知りたいって頭じゃなくて心からそう思っているのは、もしかするとはじめてのことかもしれない。
嬉しい。

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