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(未完)拡張性トーキョー・イグニッション

(2016年頃に書いていたものの一部。最初の部分だけです。)

 「イノセンスかどうか判別するフォークト・カンプフ法を受けた? あれは年に二度受けなければならないでしょ?」
責任感の強いクラス委員長が、気まずそうに云った。人類はかつて、小説というものを生み出し、「フォークト・カンプフ法」という創作の言葉を生み出した。それは現実となり、人類の義務として......或るいは災難として降り掛かっている。
「ばからしい」わたしは鼻の頭をかいた。「人間が、イノセンスになる可能性が?」
「ありえない話でもないわ。そして奴らはそれを恐れている......人間の思考をもった鋼鉄の生命体の誕生をね。レディ・リーは人類の最終的な進化体として”肉体から脱皮した、新たな器を持つ人間”を提唱したわ。これは、知っての通り危険思想として取り締まられていることだけれど。」
「神に抗うとはね。」
私は、レディ・リーの肖像を思いだした。自律型アンドロイド「イノセンス」を開発した彼女は、神として崇拝の対象となっている。彼女は中国大陸の出身だが、混血で、ユダヤ、アメリカ、中東の血も混じっている。どの人種にも近くて、どの人種からも遠い。それが彼女の神秘性を高めている。非常に美しい女性だ......現存する一枚の写真が真実であるとするなら。加工技術は彼女が生きていた二百年前から既に存在していた。彼女の顔のパーツはどれも1ミリの狂いもなく完璧と云わざるを得ないが、”レディ・リーのパーツこそが完璧”という基準が、この二百年のうちに定着したのかもしれない。それは、わたしにはわからない。
 西校舎の屋上にはサーモグラフィが少ない。
イノセンスは人間を疑っている、なぜなら、人間は無意味な雑談を行うからだ。無意味な雑談から革命が起こることは十分にありうる。私たちは、ダミー・スクリーニングを違法ダウンロードして全身を防諜処理しなければ、およそ人間らしい行為をまっとうすることさえできない。私たちは己の体温を加工し、隠蔽している。
「とにかく......今週中に受診を申請して。先生に怒られるの、私なんだから。」
「ああ、そう。でも、あんたも、怒られるかもね。」
「どうして?」
委員長は大きな瞳を瞬かせた。わたしは時折、この少女のことが信じられなくなる。だって、こんな世界のなかで、どうして平静な態度を繕えるのだろう? わたしだって、顔にはださないけれど、毎日がこんなにも窮屈で、鬱々としていて、息がつまりそうなのに。
「メイド服、すごく似合うよ。校則に触れないなら、私も遊びにいったんだけど。お帰りなさいませって、さ。」
生真面目な顔がみるみるうちに真っ赤になった。彼女の休日のささやかな労働。わたしは彼女を責めるつもりなど毛頭なく、ただほんの少し、彼女の教育的正しさに反発してみたかっただけなのだ。
 彼女は、ああ、とか、うう、とか奇妙なうめき声を小さくもらしている。そんな顔しないでよ、先生には報告しないからさ。
「ところで」私は本題を切り出した。「Aはどうなった?」
愛しいクラス委員長は、すぐいつもの冷静な、教育的な表情になって応えた。
「Aくん......彼ならまだ入院しているわ。お見舞いに行くの? あなた、まだお見舞いに行っていないものね。」
「あいつは、いらないだろう。見舞いなんて。面会拒絶していないことが驚きだよ。」
「拒絶なんて権利が、私たちにあったらいいんだけど。」
人間が入院できる病院は都内には一つしかない。かつて病院があった場所は、まるまるアンドロイドのリペア工場に立て替えられた。人間はアンドロイドを修理し、製造する生産者でしかなく、ケアをする存在ではないのだ。
 委員長は声をひそめた。
「行ってあげてよ。こんなことがもう起こらないように......」
わたしはAを、Aの身に起こったことを、一つ一つ噛み砕いて、反芻する。
 少年A。クラス委員長、湊 亞モの恋人。わたしのクラスメイト。夕暮れの秋
葉原で、イノセンスの集中レーザーに倒れた少年。
 放課後、委員長に病院の地図を手渡された。几帳面な文字で図示された新宿。
「亞モは行かないの?」
そう訊ねると、亞モは照れくさそうにハニカんだ。
「わたしはいつも行ってるから......」
「恋人想いね。」
 しかし、それも当り前の話だ。絶滅危惧種である人類同士が、過保護と呼べるほど互いを慈しむのは、種の存続という遺伝子に組み込まれた目的の為の本能的な行為なのだから。
「それほどじゃないよ。わたしがしていることは、ただの雑用。彼は聡明な人だから、わたしよりあなたのほうが話し相手に向いてると思うの。ね、きっと退屈しているだろうから。」

 秋葉原駅のガイダンス・タワーのアイドルは、この間の人気投票でトップに輝いたミニョン・ミネットだ。サーモンピンクの髪をツインに結い上げた、笑顔のかわいい女の子。ミニョン・ミネットは、駅のホームが見渡せる場所に座り、慣れた手つきでボタンを押すと高らかにガイダンス・ボイスを吹き込み、ホームで待っている乗客が退屈しないよう歌を歌い、アナウンスする。
「新宿行、あと2分で到着します。お足元にご注意ください。電車・トラムのダイヤダウンロードは、月々一五〇円から―――」
ホームのヴェンチの後ろに小型の固形生命維持装置がきらりと光っていた。
他人の固形生命維持装置を最後に見たのは何年前だろう。多くの人間は生命維持装置をインプラントしており、固形を使用するのは貧困層か、手術に適さない病人くらいのものだ。都市部の人口減少が顕著な今日、生命維持装置の製造を請け負っている工場は数少ない。わざわざ固形にして携帯するということは、人間向けに違いないのだから
生命維持装置―――人間の必需品。特に、この孤独な地球上では。
私は周りを見渡して、それからそれを素早く拾い上げた。
「ハロー。君が拾ってくれたんだね。」
若い個性的な声が聞こえてきた。かすかに息継ぎの音が聞こえる。相手は人
間だ。私は直感的に、何か面倒事に巻き込まれてしまったことに気づいた。
「あなたは誰?」
 わたしは動揺をひた隠し、つとめて冷静に返した。「お互い知らないだろうさ。それは当たり前のことだ。僕も君も(少し咳き込
んで)......人間だろ。」
「どうしてわたしが人間だとわかるんだ?」
詠子は咄嗟に大声を上げてしまい、周りの怪訝な視線を集めた。
「それはねずみ取り機なんだよ。」
なぜわからないのか、とでも言いたげな神経質な声だった。「その生命維持装置は微量の特殊レッド=フィールドBV166を放出している。君は知らないだろうが、特殊レッド=フィールドBV166は―――」
「イノセントの構成物質、眼床に対して不可視刺激を加え脳波異常を誘発す
る。」
 息を飲む音が聞こえた。
「......君は高級人間か?」
男は云った。確認するようにゆっくりと、言葉を区切りながら。
「ああ。私は高等学校に通う人間だ。」
「じゃ、君は将来有望なリペアリストなんだね。東京の高校は世界屈指のリペアリスト育成プログラムが組まれているから。ああ、拾ったのが君でよかったよ......本当に。政府に見放された浮浪者に拾われたりしたら、僕が自腹を切って開発した、そのVB166付き固形生命維持装置がパアだ。ああ......その上、君が優秀ならなおいいんだけど。」
やけに不遜な男だ。私は眉をひそめた。
「この落とし物は、新宿駅西口の駅長室に届けておく。」
「ああ、怒るなよ。」高い笑い声。「な。君......革命を起こしたくはないかな。うんざりだろ......人間として生まれたことを後悔しつづけるのは」
 突如、奇妙な違和感が下腹部で疼く。私は―――興奮していた。


「エモ反応88、YELLOWです。」
ドロシー9877A型の声。詠子はぱっちりと目をあけた。
「何故、エモ測定をしたの?」
「YELLOW以上のエモ反応はお知らせする設定です。変更なさいますか?」
ドロシーは悪びれた様子もなく云う。9877A型は低級イノセンス――従属型アンドロイド。高級イノセンスのように、人間の真似をしてエモのあるフリをしたりはしない。
 わたしはまた目をつむり、9877型ボディに沈み込んだ。詠子の身体を迎え入れたボディはゆっくりとゲートを閉じる。
 放射線カット加工ガラスの向こう側で、ドロシーが無機質な表情でこちらを見つめている。
あと200萬円多く出せば、もう少しエモ豊かなアンドロイドが買えただろう。しかし、わたしはこのドロシーに満足しきっている。人間でもないくせに、人間のような動作をされると鼻につくから。
「ラビッシュ社の新作ボディ・ソープが入荷しました。」
ボディのアナウンスとともにウィンドウが浮かび上がる。私はいつものボディ・ソープと洗髪料を選択して、また目をつむった。
洗体されている間じゅう、裸体につながれた幾本ものプラグからエモ安定刺激が絶え間なく送り込まれる。ウィンドウに映し出されたエモ反応は、WHITE(異常なし)。ドロシーがボディ専用マイクから話しかけてきた。今日はやけに能動的だ。
「何かあったのでしょう?」
「何も。」
「エモ反応は嘘をつきませんわ。」
詠子は薄目でドロシーを見た。猫のように大きな灰色の瞳がじっとこちらを見ている。一見すると人間と大差ないが、わたしにはそう比較することも難しい。東京には、ほとんど人間がいないから。
「プライバシー・モードにして聞いて、ドロシー」
ドロシーはすぐさま耳たぶに内蔵されている録音機のスイッチをオフに設定した。
「トーキョーって知ってる?」
「東京は此処です。」
「分かってる。それ以外に何か情報はない? 例えば、同じ地名だとか。」
ドロシーは脳内サーバーに接続した。イノセンスは自身を端末として無線通信できる。しかも、このドロシーはわたしが少し頭を弄ったおかげで、政府の検閲をすり抜けられるのだ。
「検索結果0件ヒットしました。」
「ヒットしませんでした、と云え。」
「何をお探しですの。」
ドロシーは、朝食の準備を始めた。棚からドイツ製の頑丈なティー・カップを取り出し、紅茶を注ぐ。ソーサーはところどころ欠けている。人間向けの食器を製造する企業は日本にはもう存在しないため、新しいものを買うとなると態々海外から輸入しなければならない。アンドロイドたちは、食事を娯楽としてしか消費しない。マイセンなどは、一部の貴族イノセンスのための最高級娯楽品である。
ドロシーは、たっぷりバターをぬったクランペットとあたたかい紅茶を出してくれた。彼女は料理も掃除も、手際よく、そして完璧に仕上げる。
わたしは洗体と洗髪を済ませて朝食をとった。ドロシーは、丁寧な手つきでフライパンを磨いている。私たちは、このような朝を十年以上続けている。
「行ってくるよ。」
わたしは制服に着替えると、返事を待たずに家を出た。ドロシーは彼女を見送ると、姿が見えなくなるまで忠実にこうべを垂れ続けた。
男はブラッドレイ=キャロルと名乗った。
「トーキョーで待っているよ。」
まるで此処以外を指しているような言葉だ。そして、それは真実なのだろ
う。彼は、わたしが今住んでいる”東京”とは別の”トーキョー”に居るのだとわかった。直感。第六感フルで。
 SLLの電源が切れると、私は手持ちのハンマーで粉々に割り、ジップロッ
クに詰めてバッグの奥底にしまいこんだ。

 総合病院は新宿駅西口すぐ。人間専門としては都内最大の病院だ。Aの病室は日当りのよい個室だった。しかし、埃っぽく、壁の塗装は剥げ、窓にはひびが入っている。人間向けの施設への補助金は年々カットされ続けているが、現場がこれほどまでにひどいとは思いもよらなかった。
わたしがドアをあけると、Aはベッドに身体を横たえ、窓の外を眺めていた。すぐにわたしに気づき、鋭い目でわたしの顔をじろりと舐める。その侮蔑的な視線が、身体中に突き刺さる......わたしは彼が苦手だ。
 一点の曇りもない陶器のような肌と、すだれのごとく垂れ下がる長い睫毛と、陰鬱な瞳。紅を塗ったような唇も、なめらかな頬のカーブも、血管のうすく透けだした手も、神経質な細い指も。すべてが完璧で、恐怖だ。
「何しにきたの?」
「見舞いだよ。わかるだろう。亞モがしつこいから。」
「おまえの顔を見ると、いらだって仕方ないんだよ。」
彼は眉をひそめて吐き捨てた。
 彼は軽薄で、攻撃的で、品性下劣な少年だ。ただ......途轍もなく、途方もなく、あきれるほど、美しいのである。わたしはその凄艶さに、圧倒されてしまう。何も言えなくなるのだ。だから、わたしはできるだけ彼に会いたくなかった。
 彼は先日、イノセンスによる破壊攻撃を受け重傷を負った。幸い、骨折や一部の内蔵の損傷だけで済んだが、学校内は戦々恐々としていた。高級人間とはいえ、人間への暴行に対する罪状は軽微だ。警察も本気で犯人探しをする気はない。
「人間は誰にも守られない。イノセンスどもめ......」
Aは負傷した左手首をぎこちなく動かしながら、呪いの言葉を吐いた。
「それはいいが......犯人を探すつもりか?」
「ああ......」Aは二、三、瞬きを繰り返す。まつげが絡まり、ぱちぱちと音が鳴る。「劣化人間どもめ。人間を舐め腐りやがって......」
「ひとりで立ち向かうのは危ない。」
 わたしはジップロックを取り出して、Aに見せた。Aはそれを受け取ると、パーツを一つ一つ取り出してまじまじと見る。
「誰のLSSだよ?」
わたしは白衣のポケット内の小型ハック機器を操り、床や壁、天井に点在している録音機や監視カメラを一つずつハックしていく。これで、監視画面にはアトランダムに他所の映像が表示され、録音機はでたらめな音声を記録する。看護師たちが気がつくまでせいぜい三分といったところか。固形LSSを所持することは違法ではないが、念には念を。それに、わたしの予想では、あと数年以内に人間のLSSは違法になるだろう。イノセンスは、人間の知能の低下を図っているのだ。
「秋葉原駅に落ちていた。持ち主の名はブラッドレイ=キャロル......偽名かもしれないけど。やつは人間にこれを拾われたがっていて、たまたま私との通話に成功した。トーキョーに来い、と云って通話が切れたんだ。」
「トーキョー。知らないね。それと僕に何の関係がある?」
「やつは革命組織の一員らしい。人間の権利を主張し、イノセンス社会に異を唱える組織。詳しくは聞けなかったが......おまえもイノセンスを憎んでいるなら、調べる価値はあるだろう。」
「それ、罠じゃないの。」
Aは斜に構えた笑みを見せた。「そうやって反乱分子をおびき寄せて、即レーザー死刑......とか。」
「それはわからない。ただ......万一を考えてこちらは名乗らなかった。」
手がかりは、トーキョー、それから、このSV166付きLSSのパーツだけ。

AはLSSをジップロックに仕舞うと、乱暴な手つきでわたしに押し付けた。
「残念だが、知らない。」
「そうか。それならいい。」
わたしは諦め、部屋をあとにしようとドアノブに手をかけた。ドアは古びていて、今にもノブが取れそうだ。わたしはふいにひどく悲しくなる。
「待て。」Aがわたしを呼び止めた。「るるに聞いてみなよ。」
「るるって......あの?」
「アキハバラの地下にいる。」
彼はベッド脇の抽斗から紙とペンを取り出し、不自由な腕を動かしてペンを走らせた。
「無理しないで。」わたしは彼に近寄った。Aが協力的な姿勢を見せるなん
て。
「土竜のように地上には出てこない女でね。地下に入り浸りだ。気まぐれだが情報は持ってる。」
「何故るるの居場所を知っているの......もしかして。」
「ふふん。」
Aは薄い唇のはしを少し歪めた。嗚呼。

 Aの言う通り、るるは土竜のように地下から地下を移動し、地下に住んでいた。
わたしは秋葉原に戻り、地下の機素市場に向かった。此処は世界最大級の機械要素専門商店街で、地上のどこよりも賑わっている。大小のパーツ店からリペア・ストア、エモ交換施設、パーツ展示会。数キロにも及ぶ薄暗い地下路地に、処狭しと立ち並ぶ商店と買い物客で日夜ごった返すこの場所の一角に、るるがいた。
 るるは見慣れた退屈そうな、アンニュイな表情で、義手専門店のレジスター係をしていた。店はあまり流行っていないらしく、るるはレジスターの横にラップトップを置いて光学キーボードを叩いていた。
るるの特徴はこう......ロリータ・ドレス、ふんだんにフリルをこしらえたヘ
ッドドレス、化粧っけのない天然の美。彼女の本名は知らない。ただ、るるとか、みみとか、りりとか......とにかくひらがな二文字がならんでいたら、それはあの子のことだ。それは、みんな知っている。
 るるは、わたしの存在に気がつくと、何、と言った。「欲しいものが?」
「るる、学校、来ないの。」
 るるは黒目がちの瞳をぱちぱちさせた。わたしがクラスメイトであることを覚えていないようだった。それもそうだろう、彼女はもう一年も登校していないのだから。
「行かない。」
るるはきっぱりと言った。そう、別に、いいんだけど。
「何の用?」
「聞きたいことがある。」
 わたしは先ほどと同じようにジップロックを見せ、ブラッドレイ・キャロルからの電話について話した。るるはその間、聞いているのか、いないのか、ぼんやりしていた。彼女もまた、Aと違ったベクトルで美しい。
 るるは、トーキョーを知らなかった。だが、ジップロックのなかのパーツををしばらく見つめ、
「オタクのとこ行けば。」
と、そっけなく言った。
「オタク?」
「いるでしょ。オタクだよ。知らないの。オタク。私も知らないけど。」
不足しすぎている彼女の言葉を搔い摘むとと、つまりこういうこと。―――オタクという男が、LSSのパーツから持ち主の情報を解析する能力を有しているという。彼女はまるっこい字でオタクの居場所を紙に書いて、そっけなく私によこした。
「きっと会えないよ。」
「どうして?」
「人間が嫌いだから。」
「もしかして、オタクはフォロワーなの?」
 るるの目は大きく、漆黒だ。そして光がなく、感情の機微がない。古ぼけた言葉で云えば、彼女はポーカーフェイス。
「人の思想なんて。」そんなこと、こたえられる筈、ないよ。
この世界では、誰もが誰もに嘘をついている。私とるる、こんなに近くに居ても、腹中はどれほど違っているか。るるは私を利用しようとしているのだろう。そのために思案を巡らせている......足りない頭で。
「わたしもついていって行ってあげる。わたしは、あいつの友達だから。」
何を考えている? 私はるるの完璧な横顔を見つめて考えた。いつも不機嫌で憂鬱そうで、投げやりな短い言葉を話す。男たちが魅了されてしまう理由がよくわかる。女のわたしでさえ、彼女から目が離せなくなるのだ。実のところ、わたしは彼女が不登校になったときから、ずっと気がかりだった。人間であることを隠そうとせず、校則を無視してロリータ・ファッションに身を包んだ窓際の席の彼女は、とてもよく目立つ存在だったから。
「ありがとう。」
るるは店じまいをはじめた。レジの電源を切り、細い腕で難なくシャッター
を下ろす。
「閉めていいの? マスターはいないのか?」
るるは振り返って私の顔をじいっと見た。吸い込まれそうな大きな漆黒の瞳
が、私を捕らえて、身じろぎひとつできない。こんな人間が本当に存在するのか?ジッと見つめられるだけで呼吸ができなくなるような、強烈なエモ効果を持つ人間が......。
「いいの。この店は、パパのものだから。」
るるはつんとしてそう云い、背中を向けて歩き出した。わたしは慌ててそれについていく。
 るるは慣れた足取りで複雑な地下を歩き、角を曲がったところで人間用トイレに入った。彼女は丸々とふくらんだポーテージのリュックサックを肩から下ろして、中から作業着を取り出した。カーキ色のオールインワン。
「着て。」
 彼女はわたしにそれを手渡すと、トイレの個室に入り、ややあって出てきた。身にまとっていた桃色のロリータ・ドレスを脱ぎ、地味なオールインワンを着て、長い黒髪を一つにしばってまとめている。私も急いで着替えた。理由を聞いても仕方がない。今は彼女の云う通りにするべきだ、と思った。    
 それから、わたしたちは階段を上がって地上に出た。自然光に照らされた彼女の肌が青白く輝く。まるで月のようだ。地上は嫌い......と、一筋透明な汗を流して、彼女は顔をしかめた。ああ、人間だ。わたしは驚くほどの安堵を感じた。

 地上にあがると、そこは小さな路地だった。地下と同じようにリペア・ストアが数件と、雑居ビルと廃ビル、流行っていない小さなゲームセンター。人通りはまばらだ。世界一の大都市である秋葉原にも、こんなところがあるのかと少し驚く。
 彼女は迷いなくひとつのマンホールの前で立ち止まり、力を込めて蓋を開
け、するりと這入り込んだ。それについて私もマンホールの中に這入り、梯子を一段ずつゆっくり降りて行く。私は奇妙な興奮を感じていた。自分がどこへ行くのか、何に巻き込まれてしまうのか。単調な生活からの逃避。冒険ごっこ。

 長い間、梯子を降りつづけた。ようやく地面に足がついたが、あたりはただの下水道だ。騙されたか、とふいに思った。
「るる、彼はここにいるの?」
「もうちょっと奥。」
「本当なんだね。」
 るるは少し機嫌を損ねたらしい。
「あなた、マンホール・ハウスを知らないの?」
 マンホール・ハウスは噂の域を出ない都市伝説だ。農地送りを逃れた難民が、マンホールの地下を違法改造してゲスト・ハウスにしているという話を、聞いたことがある。
「摘発されないの。そんなところ......」
「都市伝説じゃないんだよ。本当にいるんだから。マンホールの下で暮らす人間がさ......」
 まるで彼女は、わたしを非難しているようだった。そんな暮らしを送っている人間を、なぜ認知しないのか......とでも云いたげな言いぶり。
わたしたちは悪臭を我慢しながら下水道を奥に進む。数十分歩いたのち、壁
にぶち当たった。壁には一つの鋼鉄の扉があり、大きな蝶番がぶら下がっている。るるはポケットから鍵を取り出して解錠した。蝶番を見たのは何年前だろうとわたしが錠前を見つめていると、るるは、早く来て、と云った。
「誰かに見られるとヤバいんだよ。わかってる?」
「ごめん。珍しくて。」
 るるは何も言わずすたすたと中へ入ってしまった。わたしは扉を後ろ手に閉めた。
 そこは、想像を絶する場所だった。
 まるで刑務所だ。壁の赤煉瓦は剥がれ落ち、灯りは天井のランプだけ。そして幾本ものコードが壁じゅう、天井じゅうに蜘蛛の巣のように張り巡らされ、異様な雰囲気を醸し出していた。扉が開くことは少ないらしく、空気が淀んでいるのがわかる。
 いくつもの扉が並んでおり、りりはその中の一つの前で立ち止まった。66
と刻まれたプレートを指差して、るるは云った。
「静かにしてて。オタクは、人が苦手だから。わたしの後ろにいて。」
るるが扉を開けた。

 暗い部屋の奥で、旧型のマシンだけがデジタルな光を発している。こちらに背を向けてチェアに座っているのは、ウサギだった。
 コミカルなウサギのかぶり物をした男が、マシンのキーボードを小気味よく鳴らして何やら打ち込んでいるのが見える。うさぎが振り返った。大きく愛らしい目。口角のあがった口。そこから覗く前歯。
「あ、あ、あ、りり。......りり。」
 ウサギの男はどもった。ひどくうろたえている。
「よう、オタク。」
 るるは乱暴にオタクの頭を叩いた。かぶり物がぐらぐらと揺れる。「元気?」
「う、う、うん。いつも通りだ。ところで、この女は? ここは、部外者をあんまり歓迎しないって、知ってるだろ?」
 オタクはわたしを指差す。
「この子が、あんたにLSSのパーツ解析を頼みたいんだって。」
「いくら?」
 オタクは急に饒舌になった。わたしは少し面食らう。生憎、今は懐が寂しいのだ。
「いくらでも。」
「解析なら、伍萬円かな。」
「わかった。」
 わたしはクレジットカードを取り出そうとしたが、現金にしろ、とオタク。しかたなくありたけの金を差し出した。全部で四萬五千円。
「手持ちはこれしかない。学校から給金が入れば、すぐに支払うよ。口座を教えてくれ。」
「学校? もしかして、一高の生徒? 君。」
オタクはコンピューターから目を離してこちらに向き直った。コミカルなか
ぶり物の中で、どんな表情を浮かべているのだろう。
「ああ。るると同じ。」
「僕もだよ。もう行ってないんだけどね。」
 こんな生徒がいただろうか? わたしはしばし回想したが、思い当たる人間はいない。
「知らないよね。だって一度も通ってなくて、放校になったんだから。」
「じゃ、難民なのか。」
「まあ、そんなところだね。りりが居てくれなかったら、僕は今頃タイで稲作だよ。」
 オタクはまたタイピングをしはじめた。りりのほうを見ると、勝手にコーヒーを沸かして飲んでいる。私もコーヒーを注いで飲んでみたが、苦くて飲めたしろものではなかった。よくよく見てみると、ポットには虫が浮いている。わたしはすぐ吐き出した。
「りりはトランジー・スター社の令嬢なんだ。りりが社長に口ぎきしてくれたおかで、在留カードを手にいれられた。」
 トランジー・スター社。世界最大のイノセンス製造工場を持つ一流企業。わたしは、えっ、と小さく叫んでるるを見た。薄暗いこの部屋では、るるの表情は読み取れない。世界で一番のお嬢様。なるほど、よく見ればるるの身につけているもの、何から何までブランド品ばかりだ。
「それで、君、何の用なの。」
 わたしはジップロックを取り出して渡した。それから今までの顛末を今までのように伝える。オタクは、わたしの言葉を聞きながら、手元の電灯を付けて、一つ一つ点検しだした。ふむ、とか、ああ、とか声をもらしながら。
「このLSSは特殊なパーツが仕込まれてる。つまり一般流通されてないもの
だよ。これを見て。」
彼は、一つのモジュールを注意深くピンセットで持ち上げた。
「特殊レッド=フィールドSV166を放出するパーツだ。これは、一般流通していない。専門機関でしか取り扱わないんだよ。つまり持ち主のブラッドレイってやつは、研究機関かどこかの人間だろうな。」
オタクはパーツをまた一つ一つジップロックにしまい込む。
「やつは、トーキョーに来いと云ったんだ。何か知らないか?」
「トーキョー。......待てよ。」
オタクは、慌てた様子でジップロックを開けて今一度パーツを眺め回した。
「わかったぞ。これは、シュテルンのLSSだ。」
「シュテルン?」
「それ、ほんと?」りりが突然立ち上がった。「この子、シュテルンのLSSを拾ったってこと?」
「これを見ろ。」
 オタクに手渡されたモジュールをよく見ると、小さくR.S.の刻印が見て取れた。
「最初は何のイニシャルかわからなかったけど、これは、ロルフ・シュテルンのものだ。彼の名が刻印されているということは、これは地下組織シュテルンのLSSに違いないよ。面倒なものに巻き込まれたね。」
「もっとちゃんと説明して。」
 るるは理解できているようだが、わたしだけが取り残されている。少しいらだってそう云うと、オタクがたどたどしく説明を始めた。
「僕もその名はインターネット掲示板でしか見たことがないんだ......都市伝説だと思ってたよ。つまり、地下組織シュテルンは革命組織だ。イノセンスから抑圧された人間社会を取り返す人類復古のために活動しているという噂さ。まあ......実在しているとは思わなかった。だって、本当にそんなことを企んでいたら、即レーザー射殺だからね。......ロルフ・シュテルンというのはシュテルンの創始者と呼ばれる男だ。今、生きているかどうかもわからない。インターネットの英雄だ。」
「どうしてトーキョーからシュテルンを導きだせたんだ?」
「僕の友人にシュテルンマニアの男が居てね。そいつが、最近シュテルンが東京地下に支部を置いたって話を小耳に挟んだらしいんだよ。だから、もしかしてと思ってね。」
 その後、オタクにその掲示板を教えてもらったが、肝心のシュテルンの場所までは掴めなかった。オタクはひどく興奮し、何度も何度もわたしに握手を求めてきた。
「まさか、あのシュテルンに接触できる日がくるなんて。」
「まだ出来ると決まったわけじゃない。」
じっと後ろで黙っていたるるが、口を開いた。
「シュテルンを探して。」
わたしは嫌な予感がした。るるがイノセント製造業の首魁の娘であることが分かった以上、彼女にわたしのことを知られるのは都合が悪い。もしかしたら、トランジー・スター社を通して政府にわたしの名が要マークとして行き渡る可能性もある。
「きっと、だめ。それに、わたし、こんなこと怖いもの。」
わたしは落ち込んだふりを見せてから、顔を上げてオタクに熱烈なハグをし
た。
「ありがとう。とても助かったよ。」
オタクの胸の鼓動が高ぶっているのがわかる。彼は少し震えている。人間。
彼の肩越しにるるをちらと見る。るるはまっすぐわたしを見据えていた。傍観者の表情をたたえて。

 わたしは首都秋葉原にある国立東京第一高校に毎日通っている。
わたしは教室につくと、いつも一番前の席を陣取る。すると、目ざといコハクがすぐにやってきた。
「昨夜のパーティこなかったのか?」
「何をしたの?」
「いつも通りだよ。」
「プラグ接合エモ交換でエクスタシー? くだらない。」
わたしはそう吐き捨てた。シュテルンのことで頭がいっぱいなのに、エクスタシーに溺れている暇なんてない。
「ちょっとは人間も来てたぜ。」
コハクは機嫌を損ね、口をとがらせた。「堕落の特権をアンドロイドに奪わ
れちまうよ。」
 わたしは視線を読みかけの本からコハクの目に移した。瀞目コハク。根元まで染め上げた薄茶の髪は、教師の目を鋭利に集める。
「ねえ。トーキョーっていう地下クラブとか、知らない?」
「トーキョー」コハクはきょとんとした。「あるかよ。そんなダサい名前さ!」
 わたしはもう何も言う気力がなく、また目線を本に落とした。
第3章 脚部分のリペアについて―――活動可能限界年数の延長。人間がまっとうに暮らしていくための最善の選択は、イノセンスの専属リペアニストに就くことだ。
「探してんの?」
 聞き取りづらい若者言葉は、イノセンスたちの流行。人間相手よりイノセンスと会話することの多いわたしたちは、いやでもイノセンス的な言語の流行を取得しなければならない。まあ、その流行とやらも、人為的に作られたものだが......潜在的意思のないイノセンスが、流行という文化の潮流を生み出せるわけがないのだから。
「聞いてみようか。」
「誰に?」
「クラスのやつらに。」
 わたしはコハクに顔を寄せた。色素の薄いうぐいす色の瞳に、わたしの顔が映る。
「だめ。」
「どうして?」
「どうしても。」
 わたしはひどく疲れていた。

 昨日、マンホール・ハウスを出て秋葉原駅までるると歩いた。るるは、無感情な目でわたしを見やり、何も言わずきびすを返して地下へ戻って行った。ほっと安心した瞬間、ジーンズに忍ばせたわたしのエモ・アドレスを見たオタクから着信が入った。明日、またマンホール・ハウスに来るように、というエモ・メッセージ。きみの忠実なオタクより。
「また、怖い顔してんな。」
コハクはわたしの顔を見て笑い出す。
(未完)

(コメント2024・2・44)
Gmailの下書きを整理していたら、2016年ごろに書いていたSF小説の断片を発見したので、初投稿にちょうどいいんじゃないかと思ってポストすることにしました。
これを書いていた頃はまだ10代で、ちょうど職場の近くに図書館があったので、なにかにつけて外に出る理由を考えては職場を抜け出して、SF小説を読んでいました。今読み返すと文体や用語がフィリップ・K・ディックの影響をモロに受けていて恥ずかしいです。あとは伊藤計劃とかを読んでました。これを書いた結構あとに「イノセンス」や「攻殻機動隊」を観た記憶があります。
まだ文章のメモなどはありますが断片的なので今回は省きました。
(あらすじ)
200年前に伝説的な天才、李春嬌(レディ・リー)によって作られたアンドロイド「イノセンス」によって、世界は人間のものではなくアンドロイドが主権を持つ時代。
レディ・リーが住んでいたとされる秋葉原が世界の中心ですが、秋葉原にいられるのはごく少数の選ばれし人間だけ。彼らは「高級人間」と呼ばれるエリートたちです。
人間のほとんどは幼少時に強制的にアフリカ大陸やアジア諸国などに送られ、そこで農耕や狩猟などをして貧困のうちに一生を終えます。一部の選抜試験を通過した人間だけが秋葉原にある日本で唯一の教育機関、「一高」でイノセンスのリペアリスト(イノセンスの経年劣化や故障が起きたときの対応、また製造に関わることもあります)になるため日々勉強に勤しみます。「高級人間」であろうとも、イノセンスのために労働する人生は決まりきっていました。
主人公の詠子は男口調の美貌の女子高生。男口調なのは、子供の時から人間がイノセンスより劣っているとされ、人間であることで大っぴらに差別されることへの反抗心からです。
彼女は駅のホームで生命維持装置(スマホ)を拾い、そこで人間のための地球を取り戻す革命組織に誘われる…というところから話がはじまります。

個人的に、クラス委員で詠子の友人、亞モがニキビができて泣いてしまうシーンが、書いてて個人的に好きな部分でした。ニキビができる=人間的であることが忌避される時代に生きる女子高生。
でも、人間自体がほとんどいない秋葉原で、恋人持ちの女友達(亞モ)や、イノセンスとエッチばっかりしてる男友達(コハク)ともうまくコミュニケーションがとれない詠子の一番の親友は、幼い頃からお世話をしてくれた下級イノセンスの「ドロシー」です。ドロシーへの愛情とイノセンスへの憎悪が書いてて楽しかったな。
また、性風俗もセクサロイドがメインシーンにいるので、人間の売春婦はほとんど価値がありません。そんな過酷な世界でたくましく生きる男娼の中国人マオもお気に入りのキャラクターです。

あとは、エヴァンゲリオンを強く意識していて、詠子はインターネット世界にダイブして仮想世界で戦うのですが、仲間もみな同年代の少年少女で、恋愛があったりなかったり……ネルフの研究所のゴチャッとした雰囲気を描写できなくて挫折した思い出があります。
また、詠子が飛んだ仮想世界はいわゆる「なろう系」の中世ヨーロッパのような場所で、レディ・リーがその世界に隠した「すべてのイノセンスを永久に活動停止させる」といわれる「鍵」を探す旅に出ます。その「鍵」がどんな形なのか、そもそも物質なのか何も情報はなく……

最終的な構想では、「鍵」を見つけた詠子は、イノセンスを停止させるのか。でも、自分の親代わりのドロシーはどうなる?自分とアンドロイドはどう違うのか?自分にそんな権利があるのか?と苦悩する、というところまで考え、最終的に詠子がどうするのか決めかねたまま原稿を放置していました。
仮想世界と現実世界の交差や、「自分は何者か?」という命題は今の創作にも通じていて、結局それが書きたくて色々文章を書いているんだなあと自分の原点に立ち返れた気がします。
あとは詠子には双子の姉がいて……というのも構想にあったのですが、これも今の創作に近い。血を分けているのにまったく違う運命にいる二人の少女。
また、「李春嬌」はスターシステムの人物で、私の創作世界に深く関わる女性です。「こんなものありえないだろ」というのを可能にして話を進めてくれるデウス・エクス・マキナであり、彼女が世界に執着し続けたために世界はいくつも分岐してしまうという空想の世界があります。
構想メモで個人的に気に入った文章があったので最後に。

ある人間が、
機械のように見え、
機械のように笑い、

機械のように話すなら、
それは機械である。

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