見出し画像

自分がやりたいからやる、でいいと思う

半年ほど前から、ごみ拾いをしている。
いいことをしたい、とかというより、
ただ拾いたいから、それだけだ。

きっかけは、
人生で初めて犬をお迎えしたこと。
もうひとつは、
子ちゃまめ(子ども)と過ごす時間が増えたこと。

子犬なのでなんでも口にいれようとする。
犬の散歩をしながらそれを避けるために、
ごみを拾いながらあるいてみたら、
なんか探して歩いてる自分になってしまった。


誰のためにしているのか

きっかけはそんなものだったが、
途中からマイトングを用意してみたり、
完全に「楽しんでごみを探している」ことに
気づく。

ものの本には
ごみ拾いで人生がかわる!
とか書いてあるものを見るけど、
今のところ変わったような気もしない。

わたしは
ただ、拾いたくて拾っている。
他でもない、
わたしのため、わたしの満足のため。


だから気分が乗らない日はやらないし、
なんとなくトングを持つのがめんどうな時も
拾わない。


自己満足でも偽善でも

昔からの刷り込みだと思うが、
トイレ掃除や町の美化活動とか、
「いいこと」の部類にはいるような気がする。

それをただやりたくてやっていても、
「いい人ぶって」と「偽善だ」と言われることもあるかもしれない。

そして、
こっそりやること
がヨシとされる感じもある。

だから、最初のうちはなんとなく隠して、
こっそりと、やろうとしている自分もいた。

でも、別に恥ずかしいことでもないし、
堂々と拾ってもいいよね?と
最近ではマイトングをカチカチ鳴らしながら
楽しんでいる。


何かが起きたとき、
そこに心を寄せることを「具体的なカタチ」にしたときも、
人によっては偽善と言われたり、
なんとなく隠れてやるのが美徳のような雰囲気がある。

いいじゃないか。
自分がそれで気持ちよくなるなら。
そしてそれが誰かの助けになるなら、
別に悪いことはひとつもないじゃないか。

今年もせっせとごみを拾う。

#ナイショの抱負

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?