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ひび|2024.04.16




日に日に、職場のビルをでたときの空の明るさが増している気がする。



きょうはお弁当を済ませたあと、隣駅くらいまで足をのばして、何するでもなくぶらぶらと散歩をした。週末に友だちといっしょに行こうと思っているお店を下見したり、百貨店を冷やかしついでにキレイなトイレで一息入れたりした。まあ、さぼりだ。既定の休憩時間はゆうにはみ出している。でも、このあと四月からの新入社員がわたしのはたらくチームに研修に来るという話をきいて、なるべく長く席を空けておきたかった。この会社の、しかも大学出たてのぴかぴかの新人なんて、どんな顔であいさつしていいか分からなかった。一分一秒でも、関わる時間は短くしたかった。

薄いジャケット一枚の姿でも、三十分も歩けば汗がにじんでくる。さわやかに歩ける季節は訪れる様子もなく、その先にやってくるものだと思っていたじりりとした熱がもう気配を見せはじめた。ゆっくりできる本屋でもあればいいけれど、手ごろな距離にそういう場所がない。ぐるぐるジグザグ、無駄な動きばかり繰り返して大回りしてオフィスに戻ると、新人研修はあいさつとちょっとのレクのほんの十分ほどで終了したと、隣の社員さんが教えてくれた。



今朝、点滅社の屋良さんが書いていた「役割」、ということについて考えていた。すごく、敬虔な、神聖なきもちになった。すうっとした。どうしてよりにもよってわたしなんかが、まだ生きているんだろう? って、それはことあるごとによく考えてきたことだけれど、そしてそういうときによく投げつけられる「亡くなった人のぶんまで」とか「生きているだけで」うんぬんとか「果たすべき使命」だとかそういう気持ちの悪いきれいごとには反吐の出る思いだけれど、この〝役割があって、つとめるかぎり死なず、終えればあっさり死ぬ〟という世界観は妙にすなおにわたしの中に入ってきてくれた。「使命」と言葉の意味は似ているけれど、「役割」のほうが危ない美化のにおいがしないし、善悪も大小もさまざまにあっていい、そんな手触りがしてすきだなとおもう。なんだろうね、わたしの「役割」。一生、自分ではわかりえないのかもしれないけれど、ひとまずまだ、つづくみたいだ。



きょうから原田ひ香『古本食堂』を読み始めた。この前実家に帰ったとき、父が言葉少なに貸してくれた本。彼は昔からそうやってふいに本を手渡してくれる。そしてたいていの場合、読むとなんとなくそうか、とおもう。ぼんやりとだけれど、どうして今わたしにこれを読ませたかったのか分かったような、なにかを受けとったような気持ちになる。今回もすでにその感じがある。まあ、本人はそんなに深いこと、考えていないのかもしれないけれど。

最近また、本が手にとれなくなりつつあって、溜めていた「読みたいリスト」にあるどの本をお店でみつけてめくってももう全然心が動かなくて、かなしい気持ちになることばかりだった。でもきのう、ふいにSNSで見とめた一冊はなぜだか今読める、今読む本だって気がして、「リスト」を飛び越えてもうきょう、買いに行こうと決めた。仕事を終え、まだうす明るい街を歩き、ごみ溜めのような満員電車に乗り、いつもよりすこし早く降りた街でジュンク堂書店に入り、反応の悪い在庫検索端末の画面を殴るように叩きながら事前に確認してあった在庫本の棚位置をしらべ、手にとり、かるく数ページめくったらもうすぐにレジへ足が向いた。『古本食堂』の次に読む本が決まった。なんだか安心した。タイトルに掲げられたことばにも、なんだか安心した。



今朝、職場に着いてお手洗いで鏡をみたら、髪の毛になにかくずのようなものがのっかっていた。とっさに払って落ちたものをよくよくみると、花びらのおちた小さな花柄みたい。そっと手にとる。きみはもう、役割を終えたんだね。「ごめんね」と口の中でつぶやきながら、くずかごに落とした。自席にもどって今しがた手のなかに落ちたきもちをメモ帳にとりながら、きょうは書けるかもしれないなと、ぼんやりおもった。





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