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二〇二四年四月




四月さいごの朝、いつもどおり「いってくるね」と声をかけたけれど、返事はなかった。ひとり玄関でクツをはき、扉を開け、鍵をしめる。真っ白にひかる空から、音もなく雨がふっている。肉眼でたくさんの雨粒が降りしきるのがみえているのに、傘はまったく歌わない。風がさやさや抜けてゆく。きのう今日と、なんてうつくしい朝だろう。咲き乱れるツツジのショッキング・ピンクが、植え込みからアスファルトにまであふれて、こぼれおちている。



新年度。あんまりわたしには、関係がない。だから四月一日もへいきで休みにした。ひゅるひゅると空を駆けるつばめ。リクルート・スーツに着られてヨレヨレになりながらヒールを引きずる女の子。陽だまり、虫たち、きいろいたんぽぽ。さくらの最期のひと吹雪。アイスコーヒーを選ぶ頻度がどんどん増えてゆく。仕事のあがりが早い日の空、まだ薄く残っている昼間の影。



ふしぎと、だれかと連絡をとりあうことの多い一か月だった。いつもの友人、とっても久しぶりのひと、仲良くなり始めたばかりのひと、ドキドキしながら初めてことばを交わすひと。月末には大きなおたのしみが待っていて、ああしようこうしようと相談したり、当日の空模様に気を揉んだりしながら過ごした。文化祭の準備にいそしむ高校生みたいに、はしゃいでいたわたし。それは麻薬みたいなもので、その陰でこじれ、傷つき、弱っていたわたしのある部分を一時的に見えなくしてしまっていた。だからその効果が切れてしまったあと、わたしが力尽きるまでに時間はかからなかった。




四月さいごの夜、その週残っていたすべての出勤日をやすみにひっくり返して、オフィスを出た。動悸。動かないからだ。おぼつかないことば。濁ってゆく頭。覚えのある、あの、水底の感じ。つちやりさ さんが作った、『Swimmers』のことを思いだした。道の先が崩落していることに気づいて、助かるタイミングでちゃんとブレーキを踏む動作をとれたのは、あの本のおかげかもしれない。コントロールはできていないけれど、現在地はかろうじてつかめている。何も解決はしていないけれど、ひとまずこれでよかったんだろう。

いま思うと、この一か月くらいのわたしは明らかにおかしかった。感情的なことばがならぶ手帳をながめる。自分のことしか考えていない、生ごみみたいなことばたち。わたしはことばを、こんなことをこんなふうに、書き殴るために、使いたかったんじゃない。浮かれたわたし。はしゃぐわたし。また笑いあえる日が来るかなって、女々しく嘆くわたし。たくさんの人といっしょに過ごしながら、自分本来の醜さを久しぶりに確認して、今さら絶望しなおす滑稽なわたし。軽薄で、単純で、おさなくて、醜悪な、わたし。


朝、返事がなかったのは単にわたしの声が聞こえなかっただけらしい。わたしの不安の元なんてたいてい、こんなちいさなすれ違いから始まったものばかりなんだろう。わかっている。それでも、おろおろと崩れてゆく自分を立て直すことができない。乱高下する感情を乗りこなせずに、自分に自分ですっかり疲れ果ててゆく。もう、二度と光を浴びれなくても構わないから、お願いだから、ずっと、しずかに、ひそやかでいられたらいいのにと、思う。わくわくしたり、悲しんだり、そんな人間みたいなこと、今さらしようとするなよ。かつてそうだったように、ひんやりとしずかな日々に、それを訥々とことばにできる灰色のわたしに、返りたい。





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