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私とラジオの話

私が小学校の頃、父から3石のトランジスタ・ラジオを贈られた。3石のというのはトランジスタの事。トランジスタが3個、基盤に半田付けされていた。
真空管はどんどんとトランジスタに取って代わられ、ラジオはどんどんと小型化していった。
私のラジオは、掌に少し余る程度の大きさだった。
父は長距離トラックの運転手をしていて、ラジオは身近なものだったので、私にもその楽しさをお裾分けしてくれたのかと思う。
昭和の家庭と言うのは、比較的ラジオが日常的に鳴っているものだった。

学校では友人たちとの話で「深夜ラジオ」なるものが大変面白い、と話題だった。深夜0時という魅惑の時間、大人たちのちょっとエッチな話題と、多彩な音楽が聞ける深夜の解放区。
時を経ずに私もラジオに夢中になり、寝不足で昼間はぼんやりとしていた。
『ミスDJリクエストパレード』
『オールナイトニッポン』
『セイヤング』
ミスDJは千倉真理くらいしか覚えていないのだが、そりゃお姉さん(クレヨンしんちゃんの気持ちがよく判った)の語りかけにドキドキしたし、オールナイトニッポンは毎晩パーソナリティが入れ代わり立ち代わりするのだが、特に鶴光のオールナイトニッポンは子供が聞いてはならないヤバいヤツで、随分と大人の階段を上らせてもらった。
なにより特に土曜日深夜のセイヤングには大変にお世話になった(エロい意味ではない)。パーソナリティはさだまさし。私の現在の音楽趣味からすると、かなりかけ離れた存在だったが、視野が広がるキッカケになったし、何よりトークが抜群に上手かった。流石は落研。
初めてラジオにネタ葉書を送ったのはセイヤングだった。無論、小学生、中学生の考えること。採用されたことはなかったが、それでも毎週楽しみに聞いていたものだった。
たぶん高校に入るくらいまでは聞いていたと思う。
高校から軽音部に所属していたので、どうしても音楽に比重が移ってしまう。特に洋楽。
ミスDJは当時の洋楽を頻繁に流してくれていたが、レコードやCDを聞く時間も増えてきて、なかなかラジオという事にはならなかった。
私の小さなラジオは出番も減り、ラジカセやCDプレーヤーに取って代わられ、空いた時間もテレビに夢中。やがて埃にまみれて押し入れの奥に仕舞い込まれ、以後その消息を断ってしまった。何かの機会に手放してしまったのだろう。
暫くの間はCDばかり聞く時代が続き、それは車に乗るようになったカーステにおいても変わりはなかった。
一昨年くらいに、なんとなく聴き始めたのはFM長野。何かのニュースが流れないかとチューニングしたのが初めてだったかもしれない。
流しっ放しなので、やがて特定の番組に耳が向くようになる。
それはやはり1番車を乗る時間帯であった、夕方頃の『マジック・アワー』であり、金曜の『翔べ!Flyタグ』である。
実に久し振りにラジオ生活に復帰し、便利なものでメールやtwitterから参加できることに気が付いた。
私は10年前からtwitterアカウントをもっていたが、ずっと初期設定のままで放置していたのを、ようやく名前を付けてアクティブにした。
私のアクティブ化はラジオ有りきであり、私の遠近(おちこち)という名前はHN(ハンドル・ネーム)ではなく、RN(ラジオ・ネーム)である。ラジオに参加する時の名前として、少しはマシなものを命名した。
因みにその直前は「片面歪ノ介」という名乗りだった。当時、ラムゼイハント症候群に罹患しており、左半面が麻痺して動かなかった自虐である。
さすがにどうかと思ったので、現在の遠近に落ち着いた。これはかつて所属していたツーリングクラブの名前である。表記は遠近ではなく、西風東風だった。
あの頃の気持ちを郷愁を込めて、などと言えば詩的だが、なにふと思い出しただけだ。
小中の頃、セイヤングにネタ葉書を送っていた頃のラジオネームは覚えていない。
まぁ恐らくは、コロッケ5円の助レベルの、しょうもない命名だと思う。
ラジオというのは、私の音楽遍歴や低レベルのウケ狙いといった私の中核を成す性格を決定づけていた、そんな思い出話である。

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