鎌倉から明治時代まで!――時代別に見る、日本における「男色」文化の変化

衆道に限らず、それぞれの時代に残されている男色に関する記述をひも解きながら、その扱いの変化を追っていこう。

[鎌倉時代]アナルセックスの指南書
相手を楽しませるために少年は努力せよ

『稚児草紙』

 セックスの基本は、性器の挿入だろう。そこは男色も変わりないが、凹凸ではなく凸凸であるため、女性器の代わりとして若衆の肛門が使われた。ただし、そもそも肛門は“入れる”ことは想定されてない。この“想定外”の使用をスムーズに行うため、若衆は日々たゆまぬ努力をしていた。稚児と僧侶の男色について論文を持つ東亜大学准教授の平松隆円氏によれば、「例えば『弘児聖教秘伝私』という書物には僧と稚児の閨房の作法が描かれていた」という。

「そこにはアナルセックスの方法(拡張の仕方、男根の誘い方、射精後の男根の清浄の仕方)だけではなく、事前準備や後始末まで記されています。また、僧を満足させるために稚児自身も性的に興奮するよう、強精剤のような薬草を口にすることなども書かれています」(平松氏)

 こうした努力については、ほかにもこんな記述(以下、読み下し文)が残されている。「唾液さえ塗れば、晩年まで交わることができるのは、肛門を棒液で開いていたから」(『色道禁秘抄』(1834年))、「棒液というのは、8センチほどの木の棒に綿を巻いて勃起した性器のようにし、それにゴマ油を浸したもの。寝る前にお湯で肛門を温めれば、すんなり挿入できる」(『女大楽宝開』(1772年頃))。これらの記述は、13歳頃から陰間を目指す少年が、アナルで男性を迎えるための「仕立て」を説明したもの。実際の挿入は唾液だけでは事足りないので、アオイ科の一年草の根から抽出する潤滑油「通和散」が使われていた。若衆のこんな“努力”があったからこそ、武士から庶民まで男色に入れあげたのかもしれない。

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