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【6/3】「待つ」が能動的な行為であること

自分は我慢強い性格である……なんて、34年間の人生の中で、あまり意識したことはなかった。というか、嫌なことにはけっこうキッパリ「嫌だ」と意思表示するほうだし、むしろ飽き性だけどなあ、なんて思ったりしていた。

しかしここ数年、知人友人に自分のプライベートな話を何気なくしたところ、「なんでそんなに我慢強いんだ!?」と引かれたことがけっこうあったので、なんというか「えっ、私って我慢強かったのか……」と、自己認識を改めた。いや、正確には、我慢強いといっても「不服なことや不満なことを口に出さずに自分の中で抑圧する」というタイプではやっぱりないと思っていて、「かなり長期間にわたって日和見ができる」とか、「かなり長期間にわたってひたすら待てる」とか、そっち系だと思うんだけど。実際、私の中で「待つ」はとても大きなテーマである。「待つ」については、きっと生涯考え続けることになるんだろうな、というくらい。

で、どうしてそんなに「待てる」のかというと、これは「頑張ってひたすら状況を耐える」とかではなく、やっぱり「忘れる」のがコツですね。頑張ったり耐えたりしたら逆効果なので絶対にダメですね。何かを待つときのいちばんのコツは、待っていることを忘れること。待っているのを忘れられるくらい、面白い遊びを見つけること。待った結果が自分の求めているものとは違ったとしても、「面白い遊びができたからいっか」と諦められること。これに尽きる。

そんな「待てるヤツ」である私なのだが、以下に続く内容はもちろん「これで人生のすべてが上手くいく! 待ち方のコツすべてを、1万円という格安な値段でシェアします!!」などではない。

というか、今はやっぱり人生を能動的に動かす方法を知りたがっている人が多いはずなので、そんな中「待つ」は酷く受動的で他人任せに思え、興味ない人がほとんどだろう。「ただ待ってちゃダメだよ!」なんてのもよく聞くし。でも、人間は人生のどこかで必ず待たなければいけない時間が訪れるし、「待つ」って必ずしも悪いことではないと思うんだけど、その話はまあまた別の機会にしよう。

「それは、人はもう起きてしまった面倒よりこれから起きるかも知れない面倒のほうを怖れるからだ。変わることは危ないことだから、慣れている面倒にしがみつくんだ。そう。人は生きている人たちから逃げ出したいとよく言う。でも本当に厄介なのは死んだ人たちだ。死んだ人たちはひとつの場所で静かに寝ているだけで人を引きとめようとしたりしないけど、逃れられないのは死んだ人たちからなんだ」

『八月の光』 (光文社古典新訳文庫) ,フォークナー (著), 黒原 敏行 (翻訳)

さて、私はかなり強めの「待てるヤツ」だが、誤解してほしくないのは、「待つ」はやっぱり受動的な行為ではなく、むしろけっこう能動的な行為であるということだ。「待たない」という選択肢が隣にあって、それでもあえて自分は「待つ」を選ぶのだから。つまりさすがの私も、「待つ」は得意でも「待たされる」はあまり得意ではない。隣に「待たない」という選択肢があって初めて「待つ」ができるし、それがない状況は、やっぱり苦しい。仕事でも恋愛でもその他の人間関係でも、「自分はかなり強力なカードを持っているが、今、あえてそれは使わない」というのは大丈夫だ。でも、「そもそも強力なカードなど持っていない」は、なかなか厳しいものがあるなと「待てるヤツ」である私も思う。まあ何が言いたいのかというと、「旅行に行かない」と「旅行に行けない」はぜんぜん違くて、後者はめっちゃツライということなんだけど(結局そこなのか……)。

そして、とにかく脳内だけでもこの状況から脱したいと思った私は、去年から「アメリカ文学における"逃亡”とは……」などを粛々と考えている。「逃亡」もまた、「待つ」と同じくらい私の人生における大きなテーマなのだ。で、『ハックルベリー・フィンの冒けん』なんかはこの「逃亡」というテーマをわかりやすく扱っているので比較的すんなり「ふうん」と読んだのだけど、たとえばフォークナーの作品にそれはあるんだろうか? みたいなことを考えるために、最近『八月の光』を読んでいた。

『八月の光』はまず、リーナという妊婦が、お腹の中の子の父親を追って、アラバマからミシシッピまで4週間歩いてきたというところから始まる。お腹の中の子の父親であるルーカス・バーチは、ジョー・ブラウンと名前を変えて、フォークナーの小説のいつもの舞台であるヨクナパトーファ郡ジェファソンに住んでいる。ブラウンはその町で、違法なアルコール販売に手を染めている、ジョー・クリスマスの相棒となっていた。

このジョー・クリスマスという男が、小説の大きな柱となる人物だと考えられることが一般的には多い。クリスマスは、見た目は白人だが黒人の血が混じっている。いわゆる「ワンドロップ・ルール(ある人物の家系をさかのぼり、一滴でも黒人の血が入っていればその人物は黒人であるとされる南部独特の人種識別法)」で、白人のコミュニティに属することができない。でも、見た目は白人なので、当然ながら黒人のコミュニティにも属せない。

で、これはあくまでヨクナパトーファ郡ジェファソンという架空の町が舞台であり、アメリカ南部の物語であるから、なんというか、私が求めている「逃亡」というモチーフはあまり登場しないのかな〜と思いながら読み進めていたのだが、ぜんぜんそんなことなかった。より正確にいえば、土地の慣習や価値観に絡めとられている彼らの、「逃亡できない」物語だった。ここから逃げたいのに、逃げられない。「逃げようなどとはつゆほども思っておらずここにいる」のと、「逃げたいのに、ここにとどまるしかない」は、傍目から見たら同じでも、ぜんぜん違う。「待つ」のと「待たされる」のがまったく違うように。つまり、『八月の光』もまた、私にとってはやっぱり「逃げられない」という意味での「逃亡」の物語だった。それも、逃げる場所がない今のような状況には、むしろ『ハックルベリー・フィンの冒けん』などよりも心情的にしっくり来たといえるかもしれない。まああとは、冒頭はリーナがお腹の中の子の父親を追って旅をするところから始まるし、ちょっとネタバレになるけど、ラストもまた、リーナが生まれた子を抱えて旅をするところで終わるし。

「待つ」や「逃げない」は、自らの意志なので、そんなに苦しいことではない。でも、「待たされる」や「逃げられない」は、やっぱり苦しい。私がもし「これで人生のすべてが上手くいく! 待ち方のコツすべてを、1万円という格安な値段でシェアします!!」セミナーをやるとしたら、まあ、これはいい添えておくだろう。そして、その呪縛や、逃れられない苦しさ、あるいはそれでも旅をするためにコミュニティを出ていく力強さなど、『八月の光』の話もしようかな。

中止、延期、保留……そういった言葉にこの1年で心が折れるほど遭遇したけど、どうやらまだまだ「待たされる」時間があるらしい。「待つ」と「待たされる」の違いがよくわかっていなかった頃の私は「面白いことをして遊んでいればよろしい」というだろうし、実際それは「待たされる」場面でもけっこう有効であるとは思うんだけど。

あと少し、あともうちょっと。それはいったい、本当はあとどれくらい続くんでしょうね。


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