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【日記/54】一夫一妻制は人類の大発明だ

少し前に、1対1ではなく複数対複数の愛のかたちを築く、ポリアモリーについて書いた。

【日記/45】ヒッピーとポリアモリー

この文章を書く際に参考にしたのは『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(平凡社新書)という本なのだけど、現在モノガミー(1対1)のパートナー関係を念頭に入れて生活している私がこれを読んだ率直な感想は、「一夫一妻制って人類の大発明だったんだな」ということであった。

どういうことか説明しよう。人は、聖人君子ではない。結婚している人や特定のパートナーがいる人であっても、日常生活を送るなかで、パートナー以外の他の人に心を惹かれてしまうことは、当然のこととしてある。何も、不倫とか浮気とかワンナイトラブとかの大げさな話をしているのではない。旦那がいるけどヨン様が好きだとか、嫁がいるけどグラビアアイドルが好きだとか、恋人がいるけど職場や学校で会えると嬉しい人がいるとか。そういう些細なことも含めると、特定のパートナー以外にも心を惹かれてしまう人がいるってのは本当に、ごくごく普通のことである。

だけど、人は嫉妬する生き物だ。自分のパートナーが自分以外の人に心惹かれることは当然あることとして認められるとしても、それをきちんとした形で承認するのはなかなか難しい。ポリアモリーの人も、当然ながら嫉妬はする。相手の素直な気持ちを尊重したいと思っても、もしもう片方の恋人のほうが、自分よりも大切な存在になってしまったらどうしよう、と思い悩む。自分のパートナーが自分以外の恋人と旅行や食事に出かけているとき、心は平静でいられない。

本当は、自分はいなくても平気なのでは。むしろ、いないほうがいいのでは。──そうやって思い悩むことに、多くの人は耐えられない。ぐるぐると、出口のない感情が心のなかに渦巻いてしまう。

そこで爆誕したのが、一夫一妻制、モノガミーの恋愛観である。モノガミーの恋愛観とは、いってみれば契約制だ。本当は、他の人に心を惹かれてしまうことがある。だけど、「私にはあなた以外に大切な人はございません」という契約を結ぶ。心の容量を、特定のパートナー以外に割かない。もし契約を破るようなことをすれば、「契約に違反しています」と、堂々と相手を責めることができる。

契約があれば、人は安心していられる。パートナーがどこかへ出かけても、パートナーと離れていても、契約さえあれば、相手を拘束できる。契約さえあれば、「自分はいなくてもいいのでは」「いないほうがいいのでは」などと思い悩むこともない。恋愛や結婚における契約とは、「あなたにいてほしい」「あなたでなくてはいけない」というメッセージだからだ。

ジャン=ジャック・ルソーは『社会契約論』において、人民が政治体を作る前の社会を「自然状態」として案出した。社会が契約を結ぶ前、いわば法律や決まりごとのない無限自由の世界である。

同様に、人類の恋愛観も、もともとの状態……自然状態では、乱婚スタイルというか、ポリアモリーだったのだと思う。

だけど、無限自由の状態──自然状態では、社会不安は増し、各所での衝突は避けられない。そこでそれらのトラブルを回避するために、人類が自らに課した制約が、法律であり、また一夫一妻制に基づく恋愛観だったのだろう。厳密にいうと一夫多妻制の社会もあるけれど、契約を交わした相手以外と恋愛・性愛関係になることを禁じているという点においては同じである。

ポリアモリーの恋愛観って、本当にすごく自由なのだ。少なくとも本を読んだ直後は、人間としてのいちばん素直な気持ち、原初の状態を見たかのような気分になる。だけどすぐに、それがとても難しいこと、自分の心を上手くコントロールできる人がそう多くはないであろうことにも、気が付く。我々の多くは自然状態の社会を生きることはできず、不自由を伴ったなんらかの契約社会に属していなければ耐えられない。

だから、ポリアモリーの人は「立派」だな、と思う。いや、立派って言い方はおかしいのだけど、すごい難しいことに挑戦しているなこの人たちは、と思う。そして、そうまでして獲得した自由を通してしか見えない世界が、この世には確かにあるのだろうとも思う。

恋愛に限った話ではないけれど、自由とはすなわち困難だ。制約というルールの奴隷になっていたほうがよっぽど効率的でよっぽどラク、という物事が世の中には無数にある。



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