【9/23】他人に「態度」を強制しない

拙書『寂しくもないし、孤独でもないけれど、じゃあこの心のモヤモヤは何だと言うのか』の中に、「他人にある特定の態度や能力を用いることを、強制しないほうがいいと思う」といったことを書いた章がある。今回は、このことについて、別の話題で考えてみる。

(ちなみに本では、男性上司からのセクハラに「それくらい上手にいなして利用できないとだめでしょ」といった、とある女の子について取り上げている。)

エルサレム2

突然だが、このライター業界にしては珍しく(?)、私は非ワーカーホリックの人間である。

私の知人には「その仕事量、いつどうやってこなしてんの!? あなたの中に5人くらい人が住んでるの?」と思わず聞きたくなるような超人的な働きっぷりをしている人が珍しくないのだけど、私は幸か不幸かそういうタイプではない。まあ単純に仕事がないのだけど(がーん)、いつも1つのことが忙しくなると、他のことは「調整した」という自覚もないままスーッと音も立てずに消えていくので、なんか、そういう星の下に生まれたんだろうなと思う。酒が飲めず大人数でしゃべるのが苦手なので、人と会うことや会食なども、わりと遠慮しているほうだ。よって、基本的に予定があんまりない。

しかし、そんな自分にコンプレックスを感じていないわけではないのである。やっぱ、一角の人物になるためには、寝ずに仕事とか、深夜まで残業とか、7日間毎夜飲み会とか、そういうモーレツ体験が必要なのでは??? 別に一角の人物にならなくたっていいのだが、しかし私も人並みに、「もっとたくさんの人に自分の文章を読んでもらえたらいいな」という欲だけはあるのだった。惰眠を貪っている場合ではないのでは……と、恐怖でぷるぷるするわけである。

まあ世間的には、今どちらに風が吹いているかといえば、畏れ多くも私のほうなのかなあと思う。台風の日に無理に出勤するのはやめようぜとか(これは本当にそう)、ワークライフバランスとか、モーレツに働くことを昔ほどは良しとしない空気ができあがりつつある。そして、それはやっぱり、基本的には健全な空気だと思う。私が見ているライター業界は良くも悪くも「好きを仕事に」の世界であり、よって仕事が好きな人が多い→全体的にワーカーホリック気味という向きはあるのだけど、世間の大多数はそんな働きたくないだろうしな。そして、これは大切なことだと思うのだけど、「働きたくない」と思いながらする仕事の価値は決して低くない。みんながみんな目をキラキラさせながら働いている世界のほうが私は怖くて嫌だわ。まあこの話は長くなるので、また別の機会に譲りますが……。

しかし最近、今度は逆に、「モーレツタイプ」の人が、この空気感の中でなんだか居心地の悪い思いをしていることを知ったのである。

オテルコンチネンタル

怠け者の私からするとなかなか想像しづらいが、世の中には「働くことがとにかく好きで、何の苦にもならない」というタイプの人もいるのである。時間が来たらハイおしまいというのが嫌で、とにかく深夜まで、休日も、好きだから仕事をしていたいという人がいるのである。そしてそういう人は、本当はもっとやりたいのに、世間の空気に合わせて自分も仕事をセーブしないといけないような気がして、なんだか居心地の悪い思いをしている。私は「とにかく仕事がしたい」という気持ちはさっぱりわからないが、「世間の空気とのズレを感じて居心地が悪い」という気持ちはよくわかるので、これはどうしたもんかなと思う。

間をすっ飛ばして結論からいうと、そんなに働きたくない人はそこそこゆるく働き、めっちゃ働きたい人はめっちゃ働いていい世の中になるのが、まあいちばんの理想ではあるだろう。本の中でも書いたように、私は「他人にある特定の態度や能力を用いることを、強制しないほうがいいと思う」という思想の持ち主である。めっちゃ働きたいワーカーホリックの人に「そんなに働くのはだめだ、ちゃんと休みなさい」と伝えるのは正しそうに見えるがやっぱり疑問を持たないといけないし、「おっさんのセクハラなんて上手く利用できるでしょ。訴えたりしたらかわいそう」と思う女性がいたら、まあその人はそうすればいいんだと思う(これは本に書いた話)。個々の行動ではなく、「今の世間の空気がこうだから、あなたも空気に合わせてこうすべし」と他人に強制することを、私は憎んでいるのである。

とはいえ、セクハラの話は置いておくにしても、働き方の話になるとこれがちょっとややこしい。もちろん理想は「その人の好きにやるべし」なのだが、モーレツに働いてガンガン仕事をこなした人と、そこそこゆるく働いた人を、組織が同等に評価することは難しいだろう。当然ながら、評価は前者のほうに傾くことになる。すると、本当はそこそこゆるく働きたい人も、評価は欲しいので、やっぱりモーレツに働くのがいいんだ! という価値観に引きずられてしまう。「他人に態度を強制しない」ことは私たちが思っている以上に難しいことで、わざわざお節介など焼かなくても、ただ自分の好きに、あるがままに行動するだけでも、それが「他人への強制」として機能してしまうことは十分に考えられるのだ。

私は組織の中で人の上に立つタイプの人間ではないので、下からやいのやいの言うことしかできないのだけど、まあ、変わるべきは「評価方法」なのだろうな。しかし、どう変えたらいいのかはわからないのであった……。

とにかく、今日いいたいことは1つだ。「他人にある特定の態度や能力を用いることを、強制しないほうがいいと思う」ということ。そして、「強制などするつもりはなくても、自分の好きに、あるがままに行動するだけで、結果としてそれが他人への強制として機能してしまうことがある」ということ。2つじゃねえか。

まあしかし、これは思った以上に難題だよな。私だって、あんまり人にどうのこうのアドバイスするタイプの人間ではないけど、「好きにやる」ことそれ自体が無言の強制として機能してしまうことって、やっぱりあると思うもん。これについては、目下考え中。まじで。

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