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カントの「判断力批判」をデザインから読み解く


美を感じるのは人間だから

 カントは、表象(意識の中に現われてくるものやその内容)に対する3つの適意(快の感情)について議論する。その充足感の表現の違いを以下のように示す。

  • 快適なもの → 満足する 心の傾きに関する適意

  • 美しいもの → 意に適う 好みに関する適意

  • 善なるもの → 高く評価し是認する、客観的な価値を認める 尊敬に関する適意

 ところで快適さは、理性を持たない動物も感じるものである。ただし美を感じるのは、動物的ではあるが同時に理性的な存在者だけである。すなわち霊のような純粋な理性的な存在者ではなく、理性的な存在者であると同時に動物的な存在者である人間だけが美を感じるのである。

判断力批判(上)  p123

 この3種類の中で自由な適意は、美に関する適意、「趣味」であるという。それは、感覚能力の関心も理性の関心も、わたしたちに同意を強制することはできないからだという。

 趣味とは、適意あるいは不適意によって、いかなる関心も交えずある対象またはその対象を表象する様式について判断する能力である。その場合にこうした適意をもたらす対象が美しいと呼ばれる。

判断力批判(上) p126

構想力と知性を働かせるための「自由な戯れ」

… 表象から認識が生まれるためには、直感の多様なものを合成しようとする構想力と、さまざまな表象を合一させる概念を統一しようとする知性が必要になる。
 そして認識のために必要なこれらの能力が、ある対象を認識するためにはその表象を思い描かねばならず、そのためには自由な戯れの状態を維持しなければならないのであり、この自由な戯れという状態こそが、普遍的に伝達できるものでなけでばならない。

判断力批判(上) p145

… 構想力と知性という2つの能力を、概念的には無規定なままで、与えられた表象をきっかけとして一致される活動にもたらすのは感覚であり、これが認識一般に必要な活動を活気づけるのであって、趣味判断が要請するのはこの感覚の普遍的な伝達可能性なのである。

判断力批判(上) p149

 構想力と知性によって表象の表すものを伝えるのはことは可能であり、その根底にあるのは感覚、共感なのだろう。これは、エスノグラフィーの実施の際に、ある状況を多様な視点で議論する中で、ああこれかも!、として共通認識となる洞察が導かれる場面をイメージしてみるとよい。

 カントは、目的なしの合目的性(p153)のなかで、「形式からみた合目的性の根底にある目的 (p154)」があれば、「表象における合目的性の形式(p156)」があれば、目的なしに合目的性が認められると主張する。これは、先ほどの例で言うと、洞察がある種の合目的性と考えられるのではないだろうか。  

 さらにカントは、「趣味の最高の模範であり原型となるものは一つの理念(p186)」であり、これは「概念によって表象することはできず、個別に描き出すことによって表象するしかないのである」という。これは、プロトタイプやロールプレイングのような活動が、デザインを作り出していくために重要視されていることと関連がある。

 美というものは、合目的性が目的の表象なしである対象について知覚される限りにおいて、その対象の持つ合目的性の形式である。

判断力批判(上) p197

… 趣味とは構想力の自由な合法則性との関わりにおいて、対象を判定する能力のことである。ところで趣味判断においては構想力はその自由な状態で考察しなければならないのであるから、そうした構想力は、連想の法則に服従している場合のような再生的な構想力ではなく、自発的で生産的な構想力であり、可能な直感の任意の形式を作り出す構想力であると想定されるのである。

判断力批判(上) p209

趣味には原理のようなものはない

 趣味には一種のアプリオリの考えが個人の中にあると同時に、原理のようなものはないという。判断根拠は、本人が実際に感じる反省の中に得られる。

… いかなる指令や規則にもよらず、ただ主観が自分自身の快または不快の状態について下す反省のうちにしか、判断の規定根拠を見出すことはできないのである。

判断力批判(上) p340

…趣味の批判は、その主体においてすでに存在する感覚や概念とは別に、与えられた表象における知性と構想力の相互的な関係について、その両者が一致するか一致しないかを、規則のもとで考察し、それぞれの条件についてこの両者を規定する技術または学問なのである。この批判は、これをさまざまな事例において示すだけである場合には技術であり、そのような判定の可能性を、認識能力一般としてこれらの能力の本質から導き出す場合には学問なのである。
 この学問としての超越論的な批判は、趣味の主観的な原理を判断力のアプリオリな原理として展開するものではければならず、それを正当化するものでなければならない。これに対して技術としての批判は、たんに生理学的なここでは心理学的なものにすぎず、経験的な規則を、趣味の対象の判定に適応することを試みるものであり、こうした規則に従って趣味が実際に行使されることになるのである(ただしそれらの可能性については考察されない)。またこうした技術としての批判は美術作品についても批判を行う。これにたいして学問としての批判は、こうした美術作品を判定する能力そのものを批判するのである。

判断力批判(上) p341-342

 上記にあることを鑑みると、デザイン手法は、単なる技術に留まっている。デザインする際の活動をどのような知識を蓄積しているのかという「デザイン知識」についての理解を深めることによって、デザイン学となるのではないか。

趣味判断としての美的な判断力

 趣味とは、美しいものを判断する能力である。その判断力が表像に対して行われる場合には、直感および直感の多様なものを総合する構想力と、統合された表像の概念に使われる知性である。一方、趣味判断は、客体についての概念は存在しないため、自由な状態にある構想力と、合法則性を伴う知性との相互作用による調和にある。美しいものを前にした時に、構想力と知性の戯れによる調和によって美的な判断(趣味判断)をする。それには、その人の主観の内部と外部と調和する他との共通感覚が含まれる。

… 美しいものは倫理的に善なるものの象徴であって、こうした美しいものと道徳的に善なるものとの関係はあらゆる人にとって自然なものであり、あらゆる人が他人に義務としてそれを要求することができるものである。この点を考慮することで初めて、美しいものがわたしたちの意に適い、わたしたちが美しいものについてあらゆる他人の人々に同意を要求することができるのはなぜかを理解できるのである。

判断力批判(上) p528

 美的判断において、外的な目的は不要であり、それを見た人間の主観の内部に内と外との調和が存在するかどうかが問われる。

美的判断力の伝授は可能か?

 美的な判断力は、主観の持つ内的な可能性と、その人が存在する自然の外的な可能性から考える場合、主観自身の内部と外部を統合する超感性的なものと結びついている。つまり、美的な判断に基づいて何かを創ることは、社会と結びついているのだ。このことは、デザインをする人は、倫理的でなければならないといわれていることとも、関連があるだろう。

… だから美しい芸術にとっては手法というものはあるが、享受法というものはないのである。
 師匠は弟子に対して、なにをどのように作るべきかを手本によって示さなければならない。あるいは師匠は、自分の手続を最終的にまとめあげた普遍的な規則のようなものを作るかもしれない。しかしそうしたものは弟子にとっては、準則として役に立つのではなく、その手続の主要な要素を、折にづれて想起するのに役に立つだけである。

判断力批判(上) p533

 カントは、重要なのは弟子の構想力が、ある与えられた概念に適合するように呼び起こされることだ、という。美しい芸術のための準備は、人の与える準則にあるのではなく、人文的な教養による自分自身の心の能力の開花にある。この言葉では明示的に伝えられない力は、人間性による共感の感情を活用し、人間的な社交性によって伝達する。これは、デザイン思考が手法の伝達のみに焦点があたり、デザインの言葉にできない暗黙知という本質が軽視されたことと類似している。

二つの理論:美的と目的論的

 カントは、反省的な判断力が美的なものであり、かつその人固有のものになるという。カントは自然との対比によって判断力を議論するが、デザインの対象は人工物であり興味のあるのは後方のほうである。判断力批判では、自然以外に人工物の詩、雄弁術、音楽、絵画について検討する。また、調和を得るために戯れの重要性にも言及している。この辺りは、Marchのtechnology of foolishnessと合わせて考えたい。

… 規定的な判断力は知性という他の能力の法則のもとで、図式的にふるまうだけであるが、反省的な判断力は自らに固有な法則にしたがって、技巧的にふるまう。

判断力批判(下) p508

… 反省的な判断力の美の理論(esthetic)は、この能力の批判の一つの部門を構成することになり、反省的な判断力の論理学は、目的論という名のものとで、この能力の批判の別の部門を構成することになるだろう。しかしこのどちらの部門においても自然そのものは技巧的なものとして、すなわち自然の産物において目的に適ったものとして考察される。ただ、第一の場合には主観的に、主観のたんなる表像様式について考察されるが、第2の場合には客観的に、目的に適ったものとして、対象そのものの可能性について考察されるという違いがある。

判断力批判(下) p511


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