徳川家正と大隈重信

徳川家正(1884~1963)は徳川宗家第17代当主で、公爵、貴族院議員、そして最後の貴族院議長。前回、最後の貴族院本会議(1947年3月31日)にちょっと触れたけど、彼の半生、すなわち家督を継ぐ前(~1940年)のキャリアのメインは外交官。

家正は学習院、そして東京帝国大学法科大学を卒業後、大学院に進学し、その途中で外務省に入省。学習院卒だから東大に入るのは(制度的に)容易だったわけだけど、家正自身は成績優秀だったらしい。
外務省入省の同期は、岡部長景、有田八郎、来栖三郎、伊藤述史といった人たちで、家正は入省後、1909年11月、最初にイギリスに外交官補として赴任。新婚(島津公爵家の正子と結婚)で夫婦そろってイギリスに赴任し、その時に生まれた長男が家英。名前の付け方は単純だけど、父よりも祖父よりも早く亡くなってしまう不運の長男。このあたりは、家正の長女・豊子の自伝に色々と思い出が述べられている。

その後、家正は本省に戻り、1913年6月から政務局一課、翌年4月から外務大臣秘書官を兼任し(外相は加藤高明)、1917年11月には北京公使館に二等書記官として赴任。1921年10月から再びイギリスに在勤(書記官、参事官)したのち、シドニー総領事(1925年7月~)、カナダ公使(1929年5月~)、最後にトルコ大使(1934年12月~)を勤めて、1937年4月に退職。詳しくは下のwikiも参照のこと。笑

で、そろそろタイトルにもある大隈重信のことも。この一年ぐらい、家正が書いたもの、話したものを色々集めていたのだけど、その中にこんなエピソードが。

近衛篤麿さんが院長になってから、学習院大学を造ることになって、(今の大学ではない)特に国際関係を重要視するんだから、学習院を出る人は外交官を志望するがいいということを強調した。私が初等科を出た年かに卒業式に大隈外務大臣が見えて、外交官の任務の重要性を説かれたことを記憶している。私が後に外交畑を希望した背後には、勿論語学のこともあったとは思うが、右のような事情が幾分影響していたのかもしれない。(徳川家正「私の父と私」『中央公論』69-4、1954年)

家正が大隈の話を聞いたのは、大隈が黒田内閣の外相を務めていた頃か。外交官という職業に興味を惹かせる巧みな演説を大隈がしたのだろう、家正の幼心に強いインパクトがあったことが窺える。語学は10代で5年間イギリスに留学していた父・家達の影響と見て間違いない。
なお、近衛篤麿(1863~1904)が学習院長となったのは1895年3月からで、家正も近衛院長のもとで勉学に励んでいた。しかも、篤麿は家正の母・泰子の兄。加えて、大隈は華族政治家のホープであった篤麿にとても期待していて、篤麿と面会しては外交の話をしていたり(『近衛篤麿日記』)。そういう意味でも、家庭環境と修学時代の原風景が華族外交官としての家正を誕生させたのかもしれない。

とはいえ、家正は欧米主要国の大使や本省の主要局長などにはなっていないので、外交官としてのメインストリームを歩いたわけではない。このあたりはどう評価したらいいものか。家正が外交官として凡庸だったとか、人脈(派閥)の問題とかあるかもしれないけど。
もちろんちゃんと仕事はしていたようで、家正は初代カナダ公使ということもあり、第二次大戦後、日本とカナダの国交が回復したのち、1952年、日加協会の会長にもなってたりする(ちなみに初代は阪谷芳郎)。

でも、第二次大隈内閣に入閣した加藤外相の秘書官を兼任して、その後北京に赴任したという経歴は色々と想像をかきたてなくもない。今はこんな散漫ないくつかの点を無理やりつなげるような感じでようやく家正の断片を描くといった感じだけど、いずれ本格的な家正研究が進めばいいなぁと思っている(他力本願?)。そのためには一次史料がちゃんと揃うことが必須ですね。。。

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