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冷たい男 第2話 恋登り

"冷たい男"と彼は町の人達から呼ばれていた。

 親しみを込めて。

 彼は、生まれ落ちた時から身体が冷たかった。

 触れた相手を凍えこごえさせてしまうほどに。

 その手に触れられると骨の芯まで身体が震え、長く触れると皮膚が凍てついてしまう。

 食べ物を口の中に入れるとその途端に冷凍し固まってしまう。

 生まれてすぐに助産師を凍えさせてしまった彼を当然、病院は精密検査したが体温が異常に冷たい以外の異常はなく、検査の結果、"正常"と判断された。

 彼は、体温が凍えるほどに低いだけのただの人間であると医学が証明した。

 そして彼は体温が異常に低いだけの普通の男の子として普通の生活を送っていった。

 普通に地元の小学校に通い、勉強し、友達と遊んだ。地域のイベントにも親子で参加した。
 そして中学校、高校も地元で過ごし、順風とは言えないまでも楽しかったと言えるくらいの学生生活を満喫することが出来た。

 そして現在、彼は葬儀会社で働いていた。

 廊下の足音一つ上がらない霊安室の中を啜り泣く声が弦楽器を奏でたように震えて回る。
 白い棺の中に小さく小さく横たわる老女の前で彼女の家族たちが泣いていた。
 老女ほどではないが棺に縋り付いて泣く白髪の女性は娘さん、その肩に手を置いて目を赤く腫らしている頭髪のない男性が娘さんの夫、その後ろで泣いている40絡みの女性2人が孫だろうと彼は、霊安室に入る前に読んだ情報を頭の中で整理し、観察していく。
 故人、そしてご遺族の続柄、関係性、そして想いをしっかりと認識し、対応していくのは葬儀会社の最低限のスキルの一つ。

 それから旅立たれる方、そしてそれをお送りする方々に失礼などあっては決してならない。

 彼は、棺に横たわる老女の頭元に立つとゆっくりと白く、分厚い手袋を外す。
 その途端に部屋の温度が2℃ほど下がったように感じ、孫の1人が顔を上げる。
 彼は、老女に向かってゆっくりと頭を垂れる。
「失礼致します」
 そういうとそっと彼女の頬に触れた。

 冷気が上がる。

 彼が触れたところから白い煙が上がり、老女の身体を包み込んでいく。
 白装束が糊を付けられたようにハリを持ち、白髪が煌めき、肌は青白いものの滑らかな陶器のように美しく光る。
 まるで精巧な蝋人形のようで今にも動き出しそうな輝きがあった。

「終わりました」
 彼は、ご遺体から手を離すと丁寧にお辞儀をする。
「ご遺体を傷つけないように取り組ませていただきました。ご葬儀の日まで生前のまま保つことが出来るかと思います」
 白髪の女性が顔を起こし、彼に向かって頭を下げる。
「ありがとうございます。母も喜んでいることと思います」
 そう言って小さく笑みを浮かべる。
「お噂には聞いてたけどこちらに頼んで良かったわ」
「ありがとうございます」
 彼は、もう一度頭を下げ、分厚い手袋を両手に嵌める。
 部屋の気温が戻る。
「本当に貴方が触れると冷えてしまうのね」
 白髪の女性の後ろで赤く目を晴らした女性が口を開く。老女のお孫さんの1人で確かご長女の方だったと思う。
 昔で言うおかっぱくらいにまで短く切った髪と細い長身が目を惹く。顔立ちも知的でどこか老女の面影があった。
「どういう現象なのかしら?それともマジック?」
 長女の質問に彼は、首を横に振る。
「いえ、私にもよくは・・・・生まれついての体質としか・・・」
 長女は、ふうんっと顎を摩る。
 女性に対しては失礼かもしれないがその仕草が妙にイケメンだなと感じた。学生の頃は女子にさぞモテたことだろうと思う。
「それじゃあ霊能力みたいなものではないのね?」
 少しがっかりしたように言う。
「そうですね。ただ冷たいだけです」
 彼は、少しも悪いことをしていないのに申し訳なさそうに頬を掻く。
「残念。鯉のぼりがお婆ちゃんを迎えにきてるか分かるかなと思ったのに」
 今度は、彼が質問する側になる。
「鯉のぼり?」
 なぜ、今季節外れな鯉のぼりの話しになるのだ?
 彼が質問すると長女は意外そうに目を丸くする。
「貴方、この町の出身じゃないの?知らないの?祖母のこと?」
 そう言われてようやく思い至る。

 そうだ、この老女の家は・・・。

「ほら何馬鹿なこと言ってるの」
 老女の娘・・・長女の母が嗜める。
「すいません。娘が馬鹿なことを申しまして」
「いえ、そんなことは・・・」
「それでは葬儀当日まで母のことをよろしくお願いします」
 老女の娘が頭を下げると、次女もそして長女も頭を下げる。
「畏まりました」
 彼も丁寧に頭を下げる。

 遺族が霊安室を出て行ったのを確認してから彼は、飴細工に触れるように優しく老女の顔に白い布を掛け、棺の前に設置された祭壇にある供物を整え、新しい水に取り替え、そして香炉に線香を3本三角になるように刺し、火を付ける。
 そして合掌し、目を閉じて小さく短いお経を唱える。

 声が聞こえた。

 誰かを呼ぶ優しい声が。

 彼は、目を開き周りを見回すも突然だが霊安室の中には誰もいない。

 しかし、声は聞こえる。

 彼は、棺の中の老女を見る。
 老女に変化はない。
 白い布に顔を覆ったまま横たわっている。
 しかし、その表面から青白い炎のようなものが陽炎のように揺らめいているのが見えた。

 先程、長女に言ったことは嘘ではない。
 彼には霊能力と言った類のものはない。
 祓ったり、霊を降臨させたりそんなことは出来ない。
 しかし、この体質のせいか人よりも感覚が敏感な為、見えないモノが見たり感じたりすることくらい
は出来る。

 首筋に不均等なブラシで撫でられたような不快感が走る。

 彼は、部屋の角を見る。

 闇色のドロのようなモノが蠢いているのが見える。

 良くないモノは角に溜まる。

 彼は、胸ポケットから四角い小袋を取り出すと闇色のモノに近づく。
 そして小袋の封を切ると中身をばら撒く。
 白くざらめくものが闇色のモノに降りかかる。
 塩だ。
 葬儀会社で働くものとして塩を持って歩くのは習慣となっており、ないと逆に落ち着かなかった。
 闇色のモノは、身悶えるように身体を震わせ、蛞蝓なめくじのように溶けて消えていく。
 見えなくなったのを確認し、安堵の息を吐く。
 再び、首筋に不快感が走る。
 彼は、別の角に目を走らせるとそこにもどろっとした闇色のモノが蠢いていた。
 彼は、困ったように頬を掻く。

「こりゃ助っ人を呼ばなきゃダメか」

 霊安室の四角に盛り塩をして嫌な気配を感じなくなったのを確認してからエアコンを最大にして部屋を出る。自分が触れれば真夏といえども簡単には溶けないことは分かっているが念には念のためだ。

 社員控室に戻り、マグマのように泡立ち、沸騰したお湯を注いで作ったコーヒーを飲みながらスマホをいじっているとドアが開いた。
 口をへの字に曲げて入ってきたのは身長2メートル近い大柄の黒服を着た男だった。
 白髪の混じった髪をオールバックにワックスで固め、レンズの大きなサングラスを掛けている。それに大きな鼻と四角い顎が相まってどうお世辞を言っても強面だ。そこに学生時代から柔道で鍛え上げた大柄な身体も合わさったから何も知らない人に取っては恐怖の対象でしかない。
 そう、何も知らない人に取っては・・・。
 男を見ると彼は、にっこりと微笑む。
「お疲れ様です。社長」
 社長と呼ばれた男は、への字口を吊り上げて笑う。
「お疲れ様」
 強面からは考えられない穏やかな声と笑みは、いつも誰かを驚かせる。
「ご遺族の方たち、とても喜ばれていたぞ」
 恐らくあいさつされた遺族達もあまりのギャップに驚いたことだろう。
「良かったです」
 社長に褒められたことも嬉しいが遺族に喜んでもらえたのが何よりも嬉しい。
「それにしても"鯉のぼり先生"がついに亡くなったかあ」
 そう言って残念そうに彼の隣に座る。
 何か飲みますか?と彼は聞くが大丈夫と手で制する。
「やっぱりあの鯉のぼりのお家の方だったんですね」
 なんとなく察しは付いていたし、情報も読み直していたが、社長に言われると改めて確信する。

 彼女は、この町でも有名な存在だった。

 悪名とか奇行で目立つとかではない。

 むしろ地域からとても愛されていた人だった。

 戦争で夫を亡くしてからお腹の中にいた娘を1人で出産し、1人で育てた。
 周りから再婚を進められるも「私の夫はあの人だけ」とお断りし、両親や兄弟の力を借りながら大事に育ててきたそうだ。
 その話しが嘘でないことは娘や孫達の反応を見ても明らかだ。
 そして彼女は、人間のとても良くできた人だった。
 老女は、実家の畑を引き継ぎ、農業を生業としながら町の子供たちに習字や絵を教えていたそうだ。
 老女の父親が農家でありながらも勉学に厳しい人で女学校に通いながら学んだ経験が生きた結果だ。それに当時、町はまだ村と呼ばれる規模で手習塾など皆無だったので住民からは重宝された。

「俺も小さい頃は良く教わりに行ったな」
 社長は、両手を組んでしみじみと言いながら当時のことを思い出す。

 ちなみに社長が習いに行った時は大学生だった娘さんが先生をして、老女は塾長的な立場だったそうだが良く顔を出しては子供達に字を教えてくれていたらしい。
 そして彼女は、人格者でもあった。
 人当たりが良く、穏やかで、誰に対しても丁寧に挨拶し、丁寧に対応した。
 地域の政や行事にも積極的に参加し、民生委員や町内会の役員なども努めた。
 彼女のお陰で祭りの規模も大きくなり、子供達が安全に遠くの学校まで通えるようになるなどその貢献度はとても大きかった。
 思えばあの当時のシングルマザーが世間で生きていく為に、町から認められる為に努力してきたのだろうがその種は着実に育ち、実ったのだ。

 だからこそ"あのような行動"を取っても後ろ指を指されることはなく受け入れられたのだ。

「俺が物心付いた時にはもう鯉のぼりが上がっていたよ」
 社長は、言う。

 老女は、毎年、8月になると鯉のぼりを上げた。
 老女の腰よりも太く、屋根よりも高い丸太を庭に突き刺し、黒、赤、青、緑,橙の鯉のぼりを吊り上げる。
 そして付いた字名が"鯉のぼり先生"だった。

 夏の真っ青な空を風に乗って悠然と泳ぐ鯉のぼりの姿は彼もよく覚えている。

 彼の世代にとっては夏になると姿を現す鯉のぼりは珍しいものではなく、当たり前の景色として見ていた。

「鯉のぼり・・・なんで毎年8月に上げてたんでしょう?」
 当然な質問だった。
 鯉のぼりと言ったら5月5日、端午の節句に男子の成長を願って飾られるのが日本での一般的な通例だ。
 "健やかな成長と立身出世を願う"意味の込められた鯉のぼりを8月に上げていけないと言うことはないがそれでも不思議なことには変わりない。
「いや、俺も詳しくは知らない。うちの死んだ親父が町内会役員の時に何度か聞いたことがあるそうだが明解な答えは得られんかったらしい。ただ・・・」
「ただ?」
 彼は、首を傾げる。
 手に持ったコーヒーは既に冷めてしまった。
「あの鯉のぼりは誰かを迎え入れる為に上げていたらしい。それ以上のことは教えてくれなかったそうだ」

 誰かを迎え入れる?

 彼は、霊安室での誰かを呼ぶ優しい声がしたのを思い出す。

 ひょっとして老女は誰かに会いたかったのだろうか?

「ほらこの話しはもう終わりだ」
 社長は、拍子木のように両手を叩いて話の幕を閉じる。
 部屋中に響き渡る柏手に思わず目を大きく見開く。
「ご遺族が話されないことをこちらが根掘り葉掘り詮索するのは良くない。俺たちの務めはあくまで故人が無事に天国にいけるように立派な式を上げて送り出すこと。そうだろう?」
 社長は、サングラス越しに彼を覗き込む。
 側から見るとその筋の人間が睨みつけているようにしか見えない。
 しかし、サングラスの奥から僅かに見える目は巨大には似合わない優しく、つぶらな瞳で思わず笑いそうになってしまう。
「そうですね。わかりました」
 彼は、小さく頭を下げる。
 社長は、彼の返答に満足そうに小さな笑みを浮かべる。
「分かったなら今日はもう上がりなさい。通夜は明後日だ。明日の休みはあいつと出掛けるんだろう?」
 あいつと呼ばれて彼の脳裏にショートヘアで小麦色に肌の焼けた健康的な少女の姿が浮かぶ。
 明日は、彼女と隣町にショッピングに行く約束をしていた。車の免許を取ってからというもの荷物運びにしょっちゅう駆り出される。昔でいうアッシーくんだ。
「あいつも楽しみにしてたぞ」
 そう言って社長は、含みのある笑いをする。
 しかし、彼は困った顔をして頬を掻く。
「社長」
「なんだい?」
「急で申し訳ないんですが、今日の夜、霊安室の見張り番をしてもいいですか?」
 彼の言葉に社長は眉根を寄せる。
「故人に何かあるのか?」
 彼は、何も言わずに小さく頷く。
「1人で大丈夫なのか?」
「山の知り合いの伝手で助っ人をお願いしたので大丈夫か、と」
 そう言ってテーブルに置いたスマホを見る。
 スマホの画面に『助っ人頼んでおいたよ』と小さく文字が浮かんでいる。
 相手は、スマホを持ってきないのだが、何故か通信が出来る。不思議と思っても解明は出来ない。
「俺は冷たいだけで何も出来ないので・・・」
 申し訳なさそうに頭を掻く。
「俺には冷たくすることすら出来ねえよ」
 社長は、すっと立ち上がる。
「残業代はちゃんと付けろよ。それと・・」
 彼の肩をポンっと叩く。
「やること終えたらちゃんと寝てデート行けよ。じゃないと怖えぞ。あいつ」
 そう言って社長・・・少女の父親は部屋を出て行った。
 彼は、社長の背中に小さく頭を下げる。

 その後、少女に連絡し、事情を説明すると烈火の如く怒られたのと洋服とスイーツをプレゼントする約束をしたのは言うまでもない。

「遅れたら本気でキレるからね!」

 少女が可愛らしい卵型の顔を真っ赤に染め、綺麗に整った眉を吊り上げて怒りながらも夜食を届けてくれてから5時間が過ぎようとしている。

 時計はあと15分もすれば深夜の2時を刺すところだ。

 彼は、夜食の最後の一口を食べる。

 バケットに鳥の胸肉のロースト、トマト、スライスチーズを挟み、甘辛いソースで味付けしたモノ。
 これを彼が食べれる温度まで直前にオーブンで加熱するとチーズが満遍なく溶けてソースと絡み合い、口福を生む味となる。

「お前にも美味しく食べてもらえるよういつも研究してるんだぞ」
 社長は、揶揄うように笑い、少女に怒鳴られていた。

 彼は、ゆっくりと咀嚼して味わい、飲み込むとゆっくりコーヒーを飲む。

「ご馳走様でした」

 彼は、両手を合わせて言うとゆっくりと立ち上がる。そして部屋を出て正面玄関へと向かった。
 施設内は、照明のおかげで明るく、とてもご遺体を預かっているとは思えないほど清潔だ。
 しかし、ガラス張りの自動ドアの正面玄関から見える闇に覆われた光景は冷たい男でも薄ら寒く感じる。
 電源の落ちた自動ドアの鍵を開け、手動で横に引っ張ってドアを開ける。
 夏の生ぬるい風と草の匂いが鼻腔に入り込む。

 鈴の音が聞こえる。

 柔らかく、思わず振り向いてしまうような鈴の音が。

 そして闇の中に小さな影が浮かぶ。

 輪郭が見える見えないかの朧げなシルエットが綿毛のようにゆっくりと、ゆったりと近寄ってくる。

 正面玄関から溢れる灯りに照らされて影は少しずつその姿を晒していく。

 少し金色がかった茶色の短毛、小さな頭の上に付いた三角の耳、ビー玉のような青い目、短いがしっかりと地面を踏み締める手足、アクアマリンを想像させる水色の首輪には炎のような小さい鈴が付いている。
 そして特徴的なカギ尻尾・・・。

 どこからどう見ても完全無欠な茶トラの猫だ。

 茶トラ猫の姿を確認すると彼は、口元に笑みを浮かべる。
「お久しぶりですね。火車さん」
 彼がそう声を掛けると茶トラは、猫とは思えないような不貞腐れた顔をする。
「その名前は嫌いにゃ」
 茶トラが喋ると同時に炎色の鈴が震える。
 見かけ通りの愛らしい声色で言う。
「・・・でも正式に継がれたんですよね?もらった連絡にそう書いてありましたよ」
 再び炎色の鈴が震える。
「勝手に言われただけにゃ。ミーは長老がそんな風に呼ばれてたことも知らなかったにゃ」
 むすっとしながら前足を舐める。
「それよりもさっさと依頼の場所に連れてくにゃ。遅くなるとママさんに怒られるにゃ」
 ママさんって誰だろう?と思ったが余計な話しをしても仕方ないと思い、言われるままに茶トラを正面玄関から入れて案内する。
 茶トラは、さも自分の家かのように胸と尻尾を張って歩く。
「ところで火車さんって・・」
「火車いうにゃ」
「すいません」
「で、なんにゃ?」
「いや、いつから人の言葉話せるようになったのかなって・・・」
 初めて会った時はニャゴニャゴしか言ってなくてコミュニケーションを取るのを随分苦労したのを覚えている。
 茶トラは、歩きながら首をきようにこちらに向ける。
「ヒメのおかげにゃ」
「ヒメ?」
 彼の頭の中に方カードゲームのピンクのドレスを着た姫が浮かぶ。
「これのことにゃ」
 茶トラは、首を揺すって鈴を鳴らす。
「ミーが喋ると勝手に通訳してくれるにゃ。慣れるまでは勝手に人間語に変えるから大変だったにゃ」
 世話のかかる子どものことでも話すように言う。
 茶トラの話してくれたことはまるで理解出来なかったが昔から流行った動物翻訳ツールのようなものなのだろうと勝手に解釈した。
「なんだ。てっきり猫又みたいに年取ると猫って喋れるようになるのかと・・・・」
 しかし、彼はそれ以上、言葉を出すことが出来なかった。
 茶トラの殺気の篭った双眸が彼を射抜いた。
 明らかな殺意を持って・・・。
 彼は、思わず唾を飲み込む。
 そして学ぶ。
 例え生物としての種類が違おうが女性に年は聞いてはいけないのだ、と。

「こりゃまずいにゃ」
 霊安室に入るや否や茶トラは言う。
 エアコンを最大限に掛けているとはいえ冷たい男が悪寒を感じる冷気が部屋の中を漂う。
 部屋の隅に置かれた盛り塩が黒く変色し、闇色のものがイソギンチャクのように蠢めき、触手のようなものを老女の遺体に伸ばしている。
 茶トラは、闇色のモノに近づくと短いとカギ尻尾を振り上げて叩きつける。
 空気の切れるような破裂音が霊安室に響く。
 尻尾に叩かれた闇色のモノは、煙のように霧散する。続け様に茶トラは残りの闇色のモノもカギ尻尾で祓う。
 闇色のモノが消えると冷気が治り、元の室温に戻る。
 彼は、ほっと胸を撫で下ろす。
「まだ、終わってないにゃ」
 そういうと茶トラは、無遠慮に祭壇の上に飛び乗り、白い布で覆われた老女の顔を覗き込む。
 祭壇の上の水が溢れそうになったので慌てて押さえる。
「この人・・・誰かを呼び続けてるにゃ」
「呼び続けている?」
 彼の脳裏に昼間に聞いた誰かを呼ぶ優しい声を思い出す。
「呼ぶって・・・誰を?」
「そんなの知らないにゃ」
 茶トラは、吐き捨てるように言う、
「この人が会いたい誰かにゃ。
 でも、そのせいで関係ないワタゲまで集まってきてるにゃ。そのままじゃこのお婆ちゃんのワタゲまで汚くきたななるにゃ」
 ワタゲとは恐らく魂のようなもののことだろう。
 つまり老女が誰かを呼ぶ声に成仏出来ない他の魂が引き寄せられて老女の魂を汚そうけがそうとしている。
「汚れるとどうなるんですか?」
 彼は、恐る恐る聞く。
「さっきのドロドロみたいに苦しみ、恨みながら誰かを襲うようになるにゃ。あまりに黒くなったらミーにも祓う以上のことは出来ないにゃ」
 それはつまり・・・成仏出来なくなると言うことか・・⁉︎
 彼の背筋が震える。
「火車さん・・・」
「火車言うにゃ。言われなくてもちゃんと守るにゃ」
 そう言って茶トラは、入口に顔を向けると獲物を狙う猛獣のように身を低く構えた。
「報酬は多めに頼むにゃ」
「分かりました」
 入口のドアが激しく震える。
 ノブが壊れた振り子時計のように何度も何度も上下し、木槌で殴られたような打撃音が響き渡る。
「相当、友達がいないのかにゃ?」
 こんな時にも猫らしく空気の読めないことを言うもその声は震えていた。
 本来は、臆病なのかな?と思ったがさすがに聞く余裕も茶トラの顔を見る余裕もない。
 音が止む。
 ノブの動きが止まる。
 茶トラは、さらに身を低くする。

 ドアがゆっくりと開く。

 そこには何もいなかった。

 ただ、暗い闇の空間がぽっかりあるだけ。

 それなのに悪寒がして、冷や汗が出る。
 茶トラも小さい唸り声を上げる。
 闇が寒天ゼリーのように柔らかく波打つ。
 波は、少しずつ揺れを大きくする。
 小波から少しずつ少しずつ大きくなり、霊安室を揺らしていく。
 耳を覆いたくなるような低く、暗く、吐き気をもよおす声が室内を飛び交う。
 波の合間から蛸の足のような太く、暗く、長いモノが現れる。
 何本も、何十本も。
 その先端が醜く歪み、何かの形を形成していく。
 顔だ。
 男とも女とも判別できない苦悶の顔が浮かび、呪怨を経のように吐き出す。
 膝が震える。
 悪寒が止まらない。
 しかし、跪く訳にはいかない。
 彼は、目を逸らすことなく闇色のモノを見る。

「ウガガガガアアアアア」

  闇色のモノどもは、声にならない呪詛を上げるとこちらに、祭壇に向かって襲いかかってくる。
 茶トラの首の鈴が鳴る。
「ヒメ・・・頼むにゃ」
 茶トラがそう言うとアクアマリンの首輪が青白く光り、炎色の鈴が燃え出す。
 アクアマリンの首輪の形が崩れ、茶トラの首から外れる。
 首輪は千切れて分離し、それぞれが青白い火の玉に姿を変える。そして燃え上がる鈴を中心に囲うように一つの形を取る。

 目だ。

 炎の瞳を持つ青白い目。

「火目・・・」
 彼は、ぽそりと呟く。

 ヒメの周りの青白い火が闇色のモノに向かって弾丸のように飛んでいく。
 青白い火にぶつかった闇色のモノは断末魔のような声を上げて霧のように霧散していく。

 圧倒的な光景だった。

 ヒメの攻撃を避けて近づいてきたモノも茶トラの尻尾に叩かれ、霧散する。

「いつまで続くんですか?これ」
 口を出してはいけないと分かっているのに思わず声に出してしまう。
「この人を迎えにくる何かが来るまでにゃ」
 攻防を止めずに茶トラは言う。

 それから1時間、2時間と時は過ぎていった。
 闇色のモノは肺に溜まった膿ように次から次へと湧き出てくる。
 茶トラとヒメは、その度に除去していく。
 彼は、目を逸らすことが出来ないまま見続けることしか出来なかった。

 永遠に続くと思われた攻防は突然に終わる。

 入口を埋め尽くしていた闇が消える。
 廊下の明かりが霊安室の中に伸びてくる。
 ヒメの動きが止まる。
 茶トラは、足を崩したら祭壇の上に身体を伸ばす。
 彼は、安堵の息を漏らす。
「終わったんですね」
「そうみたいだにゃ。長か・・・」
 茶トラが言いかけた瞬間、痛みを伴って悪寒が1人と1匹を襲う。
 2人は、思わず天井を見上げる。
 そして絶句する。
 闇色のモノが天井全体に貼り付き、無数の苦悶の顔を浮かべて激しく波打ち、蠢いていた。
 苦悶の顔が一斉に降り落ちてくる。
 茶トラは、ヒメを呼ぶ。
 ヒメは、即座に反応するも全ての苦悶の顔に対応しきれない。
 闇色が霊安室を埋め尽くす。

 断末魔の悲鳴が駆け巡る。

 闇色のモノどもは煙となって霧散していく。
「間に合った」
 彼は、心の底からの安堵の息を着く。
 口の周りが白く凍てついている。
 彼と茶トラ、ヒメと闇色のモノどもの間を断ち切るように白く、大きな膜が広がっていた。

 氷だ。

 氷のかべが彼と茶トラとヒメの、老女の柩を守るように広がっていた。
 彼は、氷の壁を手袋を脱いだ両手で支える。
 彼からの冷気を帯びて氷の壁は広がっていく。
「ヒメ!」
 茶トラは、ヒメに向かって叫ぶ。
 ヒメは、青白い火を燃えたぎらせ、闇色のモノどもに向かって飛ばす。
 青白い火は、氷の壁を突き破り、闇色のモノどもにぶつかっていく。
 苦悶の声を上げて闇色のモノだは、消え去っていく。
 氷の壁が崩れ、床に散らばる。
 今度こそ悪寒が消える。
 彼は、崩れるように座り込む。
 ヒメが小さくなり、茶トラの首に戻る。
 茶トラは、感謝するように小さく鈴を鳴らし、祭壇から降りる。
 そして散らばった氷のカケラを前足で蹴って舐め、吐き出す。
「塩にゃ」
 そして祭壇を見る。
 祭壇の上に供えられていた水がない。
 もう一度、床を見ると封を切られた塩の袋が落ちていた。
「塩水を作って凍らせたにゃ?」
 常備している塩をお供えの水に入れて口に含み、吐き出して凍らせて壁を作ったのだ。
「咄嗟だったので上手くいって良かったです」
 そう言って彼は笑う。
「中々やるにゃ」
 すまし顔でそう言うと彼の手を舐める。
 あまりの冷たさに身体中の毛を逆立たせて飛び上がる。
「舌張りついちゃいますよ」
 彼は、苦笑いを浮かべて言う。

 温かい空気が流れ込んでくる。

 彼と茶トラは、入口の方を向く。
 金色の霧が霊安室の中に入り込んでくる。
 彼は、手袋をはめ直すとゆっくひと立ち上がる。
 茶トラもそれに続いて立ち上がる。
 金色の霧は、2人の足元を埋め尽くし、川のようにせせらぎながら流れを作り、池となった。
 黄金の池の水面が滑らかに揺れる。
「これは・・・」
「悪いモノではないにゃ」
 そういって茶トラは鼻を霧に近づける。
 確かに足元から感じる温もりはとても心地良いものだ。
 夜の疲れがゆったりと消えていくように気持ち良い。
 風車の音が聞こえる。
 カラカラと笑い声のような風車の音が。
 黒く、大きな影が入口を抜けて入ってくる。
 一瞬、闇色のモノどもかと思ったが感じる気配も色も違う。
 溢れる気配は春風のように香り高い。
 その色は夜空のように優しい黒だった。

 それは巨大な魚、黒い鯉のぼりだった。

 黒い鯉のぼりは、金色の池にその身を浸し、優雅に鰭を動かしながら泳いでいく。
 鯉のぼりは1匹だけではなかった。

 深い海のような青い鯉のぼり。

 血液のような鮮やかな赤い鯉のぼり。

 香りたつ新緑のような緑色の鯉のぼり。

 そして焼ける夕日のような橙色の鯉のぼり。

 鯉のぼりたちは戯れるように、舞うように祭壇の、老女の棺の周りを泳ぐ。

 風車のカラカラ笑う音が霊安室の中を木霊する。

 棺の前に若い男性が立っていた。

 丸く剃り上げた頭、切長の目、整った鼻梁、薄い唇、細い身体に甲子柄の青い着物を着ている。

 ずっと目を離さずに見ていたはずなのにいつからいたのか彼も、茶トラも分からなかった。

 男性は、小さく微笑むと老女に向かって手を差し伸べる。

 差し伸べられた手を老女が握る。

 いや、老女の遺体からぬけでるように現れた白い手が男性の手を握った。

 脱皮するように青白い光を放ちながら老女の遺体から若い女性が現れる。

 艶のある、黒い鯉のぼりと同じような夜空色の髪、絹のような白い肌、大きな目、熟れた唇。

 若い頃の老女だと彼は直感する。

 完全に遺体から抜け出ると2人は抱きしめあった。

『やっと一緒にいられるね』

 これはどちらの声だったのだろうか?

 5匹の鯉のぼりが2人の間を泳ぐ。

 金色の池を飛び出して宙を舞い、2人を包み込むように空を泳ぐ。

 鯉のぼりの隙間から2人が彼と茶トラを見る。

 2人の唇が動く。

 ありがとう

 そう言われた気がした。

 5匹の鯉のぼりが2人を完全に包み込む。
 カラカラと風車の笑い声が木霊する。
 金色の光が霊安室全体を覆う。
 彼と茶トラの間を何かが抜けていく。
 そして光が消えた瞬間、そこにもう鯉のぼりはいなかった。
 金色の池も消え去っていた。
 あるのは祭壇と老女の遺体が眠る棺、そして清浄な空気だ。
「・・・終わったみたいにゃ」
 茶トラは、そう言って身体をぐーっと伸ばす。
「あの男性は・・・」
「多分、あのお婆ちゃんの大切な人にゃ」
 後ろ足で耳の裏を掻く。
「それじゃ故人はずっとあの人を呼んでいたんでしょうか?」
「かもにゃ」
 茶トラは、大きく欠伸をするとお尻を彼に向ける。
「疲れたから寝るにゃ。報酬はあとで受け取りに来る」
 猫らしく用件が済むとさっさとその場を去っていく。
 彼は、霊安室を出ていく茶トラに頭を下げる。
 そして祭壇に向かうと香炉に線香を3本刺す。
「お水は後で持ってきますね」
 小さく呟き、目を閉じ、合掌する。
 お経を唱え、深く深く頭を垂れる。
 目をゆっくりと開き、合掌を解く。
「どうぞ、あちらでゆっくりとお休みください」
 彼は、もう一度ゆっくりと頭を垂れ。そして霊安室を後にした。
 風車のカラカラ笑う音がしたような気がした。

「それきっと旦那さんだよ!」
 彼の話しを聞き終えた少女がこちらを見て言う。
 あの後、倒れるように休憩室で仮眠を取ったら昼を過ぎようとしていた。
 恐る恐るスマホを見ると着信と怒りの嵐だった。
 スマホで話しながら何度も頭を下げ、私服に着替えて車を走らせる。
 そして怒り待つ少女を見て・・・時が止まる。
 今日のためにお洒落をしてきた少女はどんなに控えめにいっても見目麗しいかった。
 レモン色の白いフリルのついたワンピース、花の飾りのついた編みサンダル、小ぶりな腕時計、小鳥を模したイヤリング、そして薄く化粧をした輝くばかりの愛らしい顔立ち・・・。
 どんなにむすっとしていたも愛らしさの方が引き出されてしまう。
 少女は、見惚れている彼を訝しみながらも小さい声で「仕事お疲れ様・・・」と言って車に乗り込んだ。
 彼も慌てて車に乗り込んでエンジンを掛け、走り出す。
 そして「何があったの?」と質問され、話し出してから、今に至る。
「やっぱりそう思うかい?」
 何となくそんな気はしていた。
 少女の姿になった老女の魂が男性を見る目。それはまさに愛おしい異性を見る眼差しそのものだった。
 自分は、彼女のことを知っている訳ではないがあれだけ美しく、そして泣くほどに家族から愛された人だ。そんな彼女が再婚もせずに1人でいたこと、それは亡くなった旦那さんただ1人を愛していたからに他ならない。
 そこは納得出来る。
 しかし、どうしても腑に落ちないことがある。
「なんで鯉のぼりなんだろう?」
 彼女が毎年、鯉のぼりを上げていたことは知っている。しかし、それと亡くなった旦那さんがどうしても結びつかない。
 彼の隣で彼女も「うーん」と唸って小さな顎に指を乗せる。
 その仕草が堪らなく可愛らしい。
 直接でなくバックミラー越しに見ないといけないのが悔しい。
「ひょっとして・・・」
 彼女は大きな目をさらにら大きく開いて彼を見る。
「鯉のぼりって毎年夏にあがっていたよね?」
「ああっ。君も小さい頃から見てたろ」
 小学校の夏休みの頃、2人して公営のプールで泳ぎながら鯉のぼりを見て喜んでいたのを思い出す。
「あの鯉のぼり・・・きゅうりとなすの代わりだったんじゃないかな?」
「きゅうりとなす?」
 意味が分からず、彼は眉根を寄せる。
 次の瞬間、点と点が線になる。
「お盆か!」
 お盆の時期、きゅうりとなすに割り箸を折ったもので四つ足を作った精霊馬をお供えする。ご先祖たちはきゅうりの馬に乗って彼の世から戻り、なすの牛に乗ってゆっくりと帰っていく。
「きっとお婆さんと旦那さんにとって鯉のぼりが精霊馬だったのよ」
 その推理が正しかったとしたら昨夜、5匹の鯉のぼりと一緒に旦那さんが現れたことも説明がつく。
「でも、なんで鯉のぼりなのかは分からないままだな?」
「きっと旦那さんと何か約束してたのよ」
 それに関してはいくら話したところでもう分かることはない。
 分かることはないが・・・。
「ロマンチックだね」
 少女は、小さく微笑む。
 2人は毎年、鯉のぼりを上げ、そして会っていたのだ。いろんなことを話していたのだ。
 生きている間も、亡くなってからもずっと心が繋がっていたのだ。
 そして一緒に登っていった。
 こんな美しいことがあるだろうか?

「恋登りか・・・」

 彼は、ボソリッと呟く。
「えっ?」
 少女は、思わず聞き返す。
 彼は、頬を赤らめる。
 声に出てるとは思わなかった。
「い、いや、なんでもない」
 彼は、少し声を上ずらせながら運転に集中した。
 少女は、にやにやと彼を見つめていた。

 翌年、老女の住んでいた家に孫夫婦が住み出した。
 そして、8月、黒、青、赤、緑、橙の5匹の鯉のぼりが真っ青な空を泳いだ。
 風車がカラカラカラど笑った。


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