かるみについて(持論優先版)

 「かるみ」という言葉があります。俳句においても川柳においても、形式の根幹に位置付けている要素です。しかし、議論が複雑怪奇で、先行研究を追いかけるだけで、一杯一杯です。学術論文を書いているわけではないので、先行研究である程度コンセンサスが取れている部分を基軸に、持論を育てる方向で論を進めようと思いました。方針を取るのが難しいですが、ちょっと試してみます。

「かるみ」本論

先行研究のコンセンサス

 まず、コンセンサスが取れているところを探ってみます。「かるみ」の語義は、「表現が平明で通俗である」というところにあります。そして、「かるみ」は「重み」の対義語です。俳諧はまず「重み」(不易)があって、「重み」から脱却する道筋として「かるみ」(流行)がある。「かるみ」に至るためには、「重み」という過程を通らなければならない。大体、このくらいまでがコンセンサスの取れそうな「かるみ」の説明だと思います。

論を整理する

 これを整理したいのですが、例えば、スポーツの技術論を聞いていると、入口はたくさんあるけれども、出口は一つしかないという整理の仕方があります。「かるみ」については、この考え方を採るのが良いでしょう。
 まずは、持論の多さを「入口」に位置付けてみましょう。「入口」は「かるみ」や「不易流行」をどのように解釈しているのかという言葉の鏡です。俳論として、その人なりの教養、人生経験で考えてきたことをロジックに直して表現する。または、創作として言葉のイメージを膨らまして、俳句に落とし込む。そこから思い思いの「かるみ」の出口に向かいますが、「かるみ」においてその過程は「重みから脱する」道筋であり、出口は「かるみ」の語義、「表現内容が平明で通俗である」表現です。出口に至る道のりはたくさんあります。「緊張の緩和」で思い切り表現を煮詰めて、あるとき俯瞰して「ああ、こういうことか」と一言で言えるようになるのもいいですし、難しい感じにならないようにあらかじめ表現を工夫するのもいいし、特に意識せずとも平明な表現を好んでいるうちに、表現の外の体験などによって、言葉に凄みが出ることもあるでしょう。あるいは、最新の仮説にあるように、リズムで感情を作るというのも一つの方法といっても良い。その人の人生によって「かるみ」の奥義はそれぞれあるけれど、様々な経路からアウトプットされる表現は「平明で通俗なもの」でなければならないということでしょう。

人生における「かるみ」

 では、「かるみ」を生む「重み」について考えていきましょう。俳論において「重み」は雅な表現であるとか、古い表現の蓄積から時代を超えて生き残ったものを指すと考えられます。「不易流行」の「不易」ですね。
 「不易」、すなわち、人々の人生において変わらないもので、人に訴えたいものは何かと考えたとき、一言で言うと「悩む」という体験そのものであると考えます。「悩み」といっても、夕食の献立から将来の不安まで大小さまざまあるわけで、千差万別だと思います。あるいは、仏教の四苦でも示していますが、悩もうと思えば人生ずっと悩みを抱えているわけで、それは不変のものです。種々の「悩み」について工夫された表現で、人々の共感を集めたものだけが生き残り、不変的な作品として残る。例えば、『源氏物語』は単なる成功譚ではなく、その後の挫折屈折があるところに魅力がある、という作品評を教わりましたが、単なる成功譚には魅力がなく、「悩み」があるからこそ作品に魅力が出ると言うことがあるとも言えます。そうした歌物語を規範とする背景によってこれまで和歌が詠まれてきたと考えられます。
 一方、俳諧は俗の精神に基づくといいますが、この場合、「悩み」を斜に見て「悩み」を脱する表現であると言い換えられます。「悩み」を脱する方法はいくらでもあります。お腹いっぱいご飯を食べるとか、お腹を温めるなど些細なものから、別の悩みをぶつけて相殺したり、他人を頼って整理してもらったりするなんて方法もあるでしょう。とはいえ、我々は今までの人生で「悩み」を軽くする方法をいくつも試してきたわけです。ここで下手な例示を試みるより、読者自身の経験に鑑みた方がわかりやすいと思います。
 畢竟、「かるみ」とは「悩み」を解決するために導き得られる感覚ということになります。「悩み」の原因が違えば、対処法も解決方法も異なります。しかし、得られる反応は一つです。「ああ、こんな簡単なことがなんでわからなかったんだ」と、平明な言葉で説明できるようになります。こう考えれば、解決した感覚は同じでもスタートが異なるというのは合点がいくと思います。
 これは、人生や生活の中から出てくる「かるみ」です。作者が「かるみ」を感じて詠んだ俳句には、緊張が緩和したときの、安堵感のようなものが句に表れてきます。すなわち、読者は、句を読んで作者に「かるみ」を感じられるかを逆算して、作者に「かるみ」が体得されているかを解釈するのだと思われます。
 主観的に見た時、「悩み」の解決というのは、根本的には難しいことです。生きている間中何かしらに悩むことになります。しかし、悩みを一時的に忘れたり、棚上げにしたりすることで、瞬間的に「悩み」が解決されることがあります。「かるみ」はそうした安堵感を作るための思考技術であり、誰でも同じ手順で得られるような、マニュアル化できる形を持ちません。その安堵した瞬間を作るのが上手い人を我々は人生の達人と呼んでいるのかもしれません。
(※推敲時に読み返しましたが、この議論は社会批評の文脈における「かるみ」と言えそうです。本論とはずれますが、ここから論が徐々に積み上がっていくため、敢えて残します。)

表現における「かるみ」

 次に考えるべきは、人生論としての「かるみ」と表現論としての「かるみ」の対立です。研究史を参照していると、「かるみ」を人生と捉えるか表現として捉えるかで対立があるようです。しかし、これらは対立ではなく共存できるものであると思います。例えば、「軽い人」「重い人」という言葉が示すように、人間を指すこともあるし、「軽い言葉」「重い言葉」というように、言葉を指すこともあります。「軽い」といっても、色々なものに付属するものであると思われます。
 人生においては、「悩み」が解消した時の安堵感を「かるみ」の結果として得ました。では、表現における「かるみ」はどのようなものでしょうか。
 俳句で表現することを選択したときに表出する「かるみ」は、表現の時間において浮かび上がるものです。因果関係で整理すると、表現には動機があり、過程があり、結果があります。俳論においては、「重み」から「かるみ」に至ると言われています。本稿ではそれを整理して、動機を「悩み」、過程を「かるみ」または「重み」と考え、結果として読後感を得られると考えていきます。
 まず、表現の動機については、表現者の内心の要請に従うものです。これは「悩み」に類するもので、明確な因果関係で説明できないものです。
 表現の過程は、どのような方法で表現するかを考えます。表現形式によって伝え方や表現には相手に投げかける際に、「悩み」の複雑をそのまま伝えるか、一回自分の中で「悩み」を咀嚼するかが分岐されますが、「かるみ」に至る道は後者を選びます。また、前者の場合は「重み」として処理されます。表現において基準となる感覚は、作者の感覚というより、読者の感覚を指すと考えられます。人生における「かるみ」と違って、表現においての「かるみ」は作者の感覚に「かるみ」があってもなくても構わないのです。作者が迷っていても、痩せ我慢をしていても、リラックスしていても構いません。
 作者が「かるみ」を出す方向へ表現意図を決めた時、一度作者の中に整理された言葉として「平明で通俗」な言葉に置き換えられました。受け手は表現者の「悩み」が想像可能な表現であること、なんとか解決できそうなものであると安堵するでしょう。表現者の「悩み」が解決されるものかどうかは保証されませんが、理解可能な表現を得ることで、受け手はやっと緊張感を解いて「悩み」と対峙することができるのです。

人生論対表現論

 まずは、持論を優先して「かるみ」の構造のアウトラインを考察していきました。今度は、先行研究にも目を向けつつ、改めて人生論と表現論の対立を見ていきます。
 江戸時代の「かるみ」議論では、「かるみ」は軽薄とは別のものであると言われています。軽薄ってなんだろうと言われても難しいので、身近?な例を考えてみました。何かの入門書の企画があるとして、企画方針としては、初心を脱した有名人が初心者の共感を誘うための入門書、現役の専門家が自分の専門分野を中心に記述する特化型の入門書、現役を退いた第一人者が書くオーソドックスな入門書に分けられると思います。そのうち、軽薄は失礼ながら脱初心者の書く入門書で、「かるみ」は第一人者が書いた入門書に近い機能を持つといっていいでしょう。同じ平明な表現でも、脱初心者と第一人者では、その意味合いがまるで違うのがわかるでしょう。現役の専門家に至っては、むしろ難解な表現を好むかと思います。すなわち、軽薄から重厚を経て、脱力するという過程が、江戸時代に議論されてきた「かるみ」であると考えられます。
 この議論の示すこととして、緊張から解き放たれるためには、誠実に生きながら作者自身が様々な経験をすることが必要だと考え、「かるみ」の体得に(長い)人生経験を必要とすると考える人々がいます。これが人生論としての「かるみ」です。
 一方、表現論としての「かるみ」は人生経験に限らず、言語操作によって「かるみ」を出すことができると考えます。作者の境涯に関係なく「かるみ」を出すことができるというのは、テキストだけを読み取ることで起こり得ることであると考えられます。
 このように、句を読んだときに何を論ずるかで、「かるみ」論は人生論か表現論かが変わってきます。作品を通じて作者と対話するならば、作者の「かるみ」が論じられるし、テキストのみを論じるならば、読者の「かるみ」が論じられます。特に、俳句は作者の顕名性と匿名性を使い分けて読むものです。鑑賞は顕名によって行い、句会は匿名によって読みが行われます。作者が明らかになっているだけでも読み方が異なります。作者の名前があれば、作者に入り込むことができるし、作者に名前がなければ、テキストを凝視することで、作者の表現していることを推し量ることになります。顕名性は作者の肉体の感覚まで想像ができますが、匿名性は動きや光景を追うことはできるけれど、作者の感覚の想像には、読者の感覚が反映されやすいです。論じていくうちに作者だか読者だか、誰の感覚かわからなくなっていきますが、句を論じるときに、表現の主体と客体をしっかり捉えられれば、このような混同は避けられるものと思われます。
 人生における「かるみ」と表現における「かるみ」を検討してきましたが、人生における「かるみ」は表現主体、すなわち作者における安堵感を導くものであり、表現における「かるみ」は言語表現の客体、すなわち読者における安堵感を導くものであると考えられます。どちらが優越しているということはなく、読み方や分析するものによって、論じ方が変わっているだけであると思われます。
 安堵感は、緊張の緩和ともいえます。緊張が緩和すると笑いを生むというベルクソン哲学を意識したのか、「かるみ」と「おかしみ」を強く結びつける説もありますが、「おかしみ」は「かるみ」を得た生理的反応の一つであり、川柳でも近接した関係を持っていることからも関係自体は深いと思いますが、ここでは敢えて強く結びつけて考えることもないと思います。あくまで、「おかしみ」は「かるみ」を得た反応の一つという位置付けで良いでしょう。

川柳の「かるみ」

 では、川柳としての「かるみ」はどうでしょうか。持論では、川柳とは作者の描き出す人格に読者がのめり込む性質を持つ表現形式であると考えています。「穿ち」で鋭く本質に切り込んで、本質を「おかしみ」に変えて「落とし」にかかります。読者が「穿ち」にのめり込みすぎないようにブレーキをかけるのが、川柳の知恵であると思われます。「かるみ」は、物事の本質をそのままに伝えるのではなく、作者の中で整理してからわかりやすい言葉に直して、「おかしみ」に繋ぎます。
 「かるみ」を意識してわかりやすい言葉にすることで、作者としても難解な内心に整理がつきますし、読者の理解が進むように工夫した部分もあると思います。「穿ち」そのものでは「毒舌」になってしまいます。「毒舌」は自らも他人も害してしまいます。それを緩和させるために「かるみ」と「おかしみ」を用いて、社会批評を傷つかずに聞く体勢を持つことができます。そこに「落とし」を入れれば自らを卑下することになって、無用なトラブルも避けられます。下賤の輩の戯言ですから、お気になさらずなどという具合です。「穿ち」だけになってしまった社会批評(「穿ち」の下手な「穿ち」)を江戸っ子が面白がらないのは、勝海舟『氷川清話』にも書かれています(時事川柳(新聞川柳)の項に引用した文があります)。
 俳句の「かるみ」の因果関係に置き換えると、「穿ち」は「重み」(本稿では「悩み」)に相当して、「かるみ」を経て、「おかしみ」という「かるみ」の生理的反応を得ます。「かるみ」の基本的な機能は、俳論で語られている「かるみ」と変わらないですが、川柳では「おかしみ」という生理的反応を要素として捉えているところが、俳句と異なるところですね。
 このように、俳論においても川柳論においても、「かるみ」は深刻な場から脱却するための工夫や配慮が込められていると考えられます。

周辺術語の再検討

「重み」の再検討

 「かるみ」の立ち位置は、周辺術語の検討によってより明確なものになると思います。ここでは、「かるみ」の周辺術語を検討していきます。
 まず、「かるみ」の検討でも軽く触れましたが、「重み」について詳しく検討したいと思います。
 「重み」とは、先述の通り、不易、雅語といった類の格調高い言葉を指します。和歌における「問題解決」に焦点を当てると、一対一ではない関係性の歌というのも存在します。社会が絡む和歌、短歌です。それに絞って、いくつか歌を読んでみました。
 まず、『万葉集』の貧窮問答歌や防人歌といった、社会情勢が絡んだ歌を見てみると、長歌では、自分たちでは解決できない「悩み」を朗々と訴えます。一方で短歌の形式では「悩み」を要約して「美」のイメージを付加しているように読みました。

(参考)
たのしい万葉集: 万葉集の入門サイトです(An introductory site for Manyoshu)
https://art-tags.net/manyo/

 現代短歌はどうでしょう。萩原慎一郎『滑走路』(2017年 角川書店)では、前半に<文語にて書こうとぼくはしているが何故か口語になっているのだ>という歌があり、集中の口語短歌を読んでいると、言葉の感情が意味より先行している印象を持ったので、整理できない思いを吐露するのに口語を用いていると思われます。さらに、後半の<まず文語そしてハンマー手に持って口語短歌に変えてゆくのさ>で、自分の中で「悩み」を整理してわかりやすい形に要約しないことを決意したように読みました。
 短歌においては、長歌や口語といった気持ちの整理されていない言葉を投げかけることで、「悩み」を問いかけ、文語の短歌の形式で自分の気持ちを整理していると思われます。「悩み」が短歌の形式に整理され、「美」が付加された言葉を、雅語と言ったり、「重み」と呼んだりしていると考えられます。同じ整理というプロセスはあるけれども、最終的な効果は、美しいものを鑑賞した感動であるように思います。

「風雅の誠」の再考

 「不易流行」の議論では扱いが中途になってしまいましたが、「重み」の議論において「美」を取り扱うことで、「風雅の誠」について考察する必要も出てきます。
 「かるみ」論と結びつきの強い不易流行論では、「風雅の誠」を中心にして「不易」と「流行」が表裏に配されていると整理する方法がありますが、「風雅の誠」について、従来の論点を拾うと混乱を来します。今回、「美を価値観の中心に置くことで、倫理の代替にする」という議論を仄聞したことがありますが、そこから着想を得て、社会科学で言うところの「行動原理」、すなわち、行動の原因となる内心のあらゆる動きを総じて「風雅の誠」と置き換えて考えていきたいと思います。「風雅の世界においての誠心誠意」が、俳諧の動機として機能していると考えます。今の言葉で考えると、「生活は破綻しているけど、文芸のことには真面目」という人物評における「文芸のことには真面目」の部分を切り取ると、想像がつきやすそうです。すなわち、「美しい文章、感動させる文章を得るために人生の全てを賭けている」という人物像を想像できると思います。それが、詩歌の世界の基本的な約束事として働いているようです。
 本論に「風雅の誠」を当てはめていきます。「悩み」を韻文に変換する際、相手に与える印象を「かるみ」、「重み」かを選ぶ前に、「風雅の誠」が機能すると考えられます。「かるみ」「重み」のどちらにも「風雅の誠」が存在して、「風雅の誠」を「直接」表現すると「重み」になり、わかりやすい形に噛み砕くと、「かるみ」になると考えられます。

「悩み」の再検討

 「かるみ」でも扱ったように、表現において感情を整理することは、実際に問題を解決することが必須ではなく、解決の糸口を見出すことを相手に投げかける技術であると考えられます。
 様々な形式を見ていると、「悩み」をそのまま表現する方法というのがあります。口語短歌、自由律俳句、「文芸川柳」など、約束事を無視した形式や、長歌の形式において見られる、無軌道的な言葉のある種の力強さは、事実をそのまま表現した言葉とも言えそうです。「悩み」をストレートに解き放つことは、あるいは相手を傷つけることも厭わない言葉とも言えます。川柳の言葉で本質を突くことを「穿ち」といいますが、言葉の機能を考えると、「穿ち」は批評性と攻撃性を併せ持つ言葉であることが想像されます。すなわち、日本語では、批評性の中に攻撃性を含むと考えられていることがわかります。
 日本語の韻文を見ていると、美を求める表現として完成されていくと、美に留まり陳腐化していきます。陳腐化された表現を批評する目的で攻撃性を帯びた新形式が生まれ、賛同者が増えると、美を取り込んで古びてしまいます。これが周期的に起こっている印象を受けます。
 微視的に見ていくと、新しい形式は、批評性を持つと同時に、ある種の攻撃性を帯びていますが、形式が社会に受け入れられるようになると、攻撃性が引っ込んでいきます。川柳でも検討しましたが、攻撃性は他者のみならず、自らをも害する場合が多く、「悩み」に感情をそのまま乗せるということは、作者自身に対しても非常に大きなリスクを伴います。多くの韻文の場合、自衛のために「悩み」を離れて、美を追求した形式に転換する選択をしてしまいます。それは形式としての完成であり、停滞をも意味します。「不易流行」論には、未完成に留まることを良しとする考えもありますが、未完成であることは、攻撃性を持ち続けるということでもあります。「悩み」を表現している形式を個別に検討していくと、それぞれの持つ攻撃性が浮かび上がってきます。

韻文が表現する「悩み」

 自由律俳句は、社会詠と結びつくことがあります(例、プロレタリア俳句)。社会詠は批評を伴います。自由律俳句に留まらず、<戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉>のように、口語俳句としても社会詠の効果は高いように思います。定型において批評することも可能ですが、敢えて自由律俳句や口語俳句を選択することで、批評性と攻撃性を表現することができます。
 『滑走路』で萩原が短歌で口語を使うために「ハンマー」という比喩を用いたのは、剥き出しの言葉は攻撃性を持つものであると考えたからかもしれません。攻撃性は他者だけでなく自らをも傷つけるものですから、口語で詠むことは、文字通り決死の覚悟だったように思います。
 僕の定義における「文芸川柳」は、川柳が設定している、読者が作者にのめり込めすぎないように工夫していた、三原則というブレーキを壊す方向に発展していて、作者が表現の責任主体になるのと同じタイミングで、作者に乗るかそるかだけが評価の基準になり、作者にのめり込む読みをすることで成り立っていると考えています。そういう句を読んでみると、時には「過剰」になるくらい感情が暴走することもあります。作例は挙げませんが、例えば『金曜日の川柳』(左右社)や『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)といったアンソロジーで色々な作家の作品を読んでみると、そういった句を見出すことができるでしょう。
 また、伝統川柳の「穿ち」はその名が示す通り、攻撃性を持っていて、攻撃性を覆い隠すための技法として「かるみ」を用いているとも考えられます。「かるみ」の要素のない川柳には、剥き出しの攻撃性が宿っています。「文芸川柳」でも攻撃性を出そうと思えば、攻撃性を出すことができます。短歌も口語自由律が主流であるように思います。口語と自由律は、攻撃性が剥き出しになることがあります。こうした傾向から、短歌と川柳に親和性を持つ人がいるのも合点がいきます。

持て余される「悩み」

 また、「かるみ」というプロセスを経ることは、同時に「悩み」を「悩み」のまま表現することが難しいことを示しています。「かるみ」と「重み」は、俳諧の言葉に過ぎないけれど、現代の言葉においても、攻撃性を抑えるときに、「かるみ」のような言語操作をすることがあります。批評が攻撃性を帯びることは、受け手の側が問題の解決を避ける口実を作りがちであるため、柔らかく言い換えることが多くなります。批評を柔らかく言い換えて事実から遠ざけてしまうことは、受け手の事実認識を誤らせる原因になります。「かるみ」の言語操作が巧みになるたびに、社会には「悩み」を受容しても、それを解決する糸口がなくなります。裏を返せば、「かるみ」の言葉を用いるとき、他人の協力は限定的になるため、自分で感情を解決できる余地を残すことが常に求められているとも考えられます。社会として他者の助けが得られない言語、いわば、「自助」の言語であることが「かるみ」の構造には示されているように思います。
 不安を言葉にすることで混乱を解消する方法があります。不安を不安のままに書くのが良いときと、不安を挙げた後、考えを整理していくのが良いときがあります。自分で整理するときは、書きながら読者を想定する、すなわち、常に頭の中で対話をすると、まとまりが出てきます。話したいことをそのまま書くのではなく、一度相手に伝わる形に整理してから書く。手紙のようなその心配りに、日本語のアイデンティティがあるようにも思えます。

まとめ

「かるみ」モデルの構築

 記事全体のまとめに入ります。
 まず、文学の動機、あるいは思考の動機として誰かに訴えたいモヤモヤを「悩み」として設定しました。
 「悩み」は、人に伝えるために、話者の中に整理されることになります。整理の手段として、一つには「風雅の誠」、すなわち「美を求める心」を用いて、相手に受け取りやすい形に整形します。「風雅の誠」を経て発話された言葉には「かるみ」「重み」という印象を作者/読者に与えます。「かるみ」には、「悩み」をわかりやすい形に整理することで、作者/読者を安堵感に導く効果があります。一方で、「重み」は「悩み」を美しい形に置き換えることで、作者/読者を美の高みに導く効果があります。
 「悩み」をそのまま表現する方法もあり、そうした表現は批評性を持ちますが、攻撃性を感じることもあります。表現形式の約束事を逸脱した時に、「悩み」は観測しやすくなります。
 川柳においては、「穿ち」、すなわち批評の持つ攻撃性を「かるみ」によってわかりやすい形に言い換えて、緊張を緩和させ、闘争心を緩和させています。「かるみ」の脱力の後には「おかしみ」、諧謔を起こすのがセオリーとなっています。
 「かるみ」は整理された内心、あるいは整理されない内心を相手にわかりやすい形で投げかけることを指し、「重み」はそれらの内心をそのまま投げかけることを指すと考えられます。

フローチャート

後記

 論述に外れたけれど、その他言いたいことを後記に記します。

 人によっては、「かるみ」のどこがいいんだと言う人もいると思います。「かるみ」批判の大部分は「かるみ」を侮って、平易な言葉に置き換えるときに雑な把握をして、失敗したためというのが多いと思います。人を励ますために雑な把握を行い、他人に理解や共感がないことを表明していることも多く、友情にひびが入ったりすることもあります。一見平易な表現、わかりやすい表現であっても、初心の人と達人の言葉を区別することが聞き手に求められています。受け手、読者、聞き手であっても、ただ言葉を消費するだけでなく、言葉に対する感性を試されているということは忘れてはいけないと思います。

 もちろん、「かるみ」が日本語において万能な説明ではありません。「かるみ」モデルで説明できそうなのは、精々、身近な悩みや美の世界の範疇の、対人の会話に限られています。考察を試みたのですが、近代詩の言葉は「かるみ」モデルでは説明できませんでした。人間同士の会話と、人間を超越した者との対話では性質が異なるのかもしれません。言葉には、人間を超えたものとの対話の方法も存在します。自然科学では自然との対話、哲学や宗教学では、超越的な真実との対話、こうした枠組みを「かるみ」モデルによって見出すことは難しく、別の枠組みで考える必要があります。

 俳句の「かるみ」を考えているとき、多くの考察材料に、表現主体としての立場と表現客体としての立場がしばしば混同されていたのに気づきました。今回はそれらを意識的に分けることで、なんとか整理をつけました。これが長年の対立を解決できる手掛かりになれば幸いです。とはいえ、論壇のための手続きを取っていないので、本稿が論壇に直接影響することはないでしょう。俳句好きの戯言として受け取ってもらえればありがたいです。

持論優先版の参考文献

中村俊定「芭蕉晩年の風調『かるみ』に就て」
(『国文学研究』第7巻 1936年 早稲田大学国文学会)
潁原退蔵「軽みの真義」 
(『芭蕉研究』第2号 1943年 靖文社)

金子はな「芭蕉の「軽み」研究史論(上)」
(『東洋大学大学院紀要(50)』 2013年 東洋大学大学院)
https://researchmap.jp/izen/published_papers/27319190
金子はな「芭蕉の「軽み」研究史論(中)」
(『東洋大学大学院紀要(51) 』2014年 東洋大学大学院)
https://researchmap.jp/izen/published_papers/27319188
金子はな「芭蕉の「軽み」研究史論(下)」
(『東洋大学大学院紀要(52) 』2015年 東洋大学大学院)
https://researchmap.jp/izen/published_papers/27319187

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