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本当は怖い『ベイビーわるきゅーれ2ベイビー』今作の背後には『バトルロワイヤル』と、ナ〇スが息を潜めている【ネタバレ有り】

■待望の続編は、興奮と悲哀に満ちた傑作でした。

 去る3月24日、待望の邦画アクション最高峰映画『ベイビーわるきゅーれ』の続編『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー(以下:ベビわる2)』が公開された。前作の衝撃と歓喜の大ヒットも記憶に新しい中、更なる進化を遂げて帰ってきた深川まひろ(髙石あかり)と杉本ちさと(伊澤沙織)の殺し屋コンビの活躍はいかに!? と嬉々として公開初日に鑑賞してきたのだが……。

 その衝撃足るや凄まじいものがあった。これはただ事ではない。
 ただのカッコイイ&可愛いアクション映画ではない。

 そのようなある種のポップな要素も前作と比較して何倍もグレードアップしているが、今作の最大の見所は現代の社会構造の闇への洞察の深さである。そしてその闇の中で殺し屋として、いや、現代を生きる一個人として武器を手に取り、最終的にはステゴロで人生を生き抜いて行かねばならず、敗者はその闘争の中で清々しいほどの充実を抱いたとしても、勝者からは命を獲られなければならないという残酷な現実そのものである。

 主人公は前作に引き続き、深川まひろと杉本ちさとの可愛い女の子殺し屋二人組だが、今作は彼女らに挑戦する同じく二人組の兄弟バイト殺し屋[神村ゆうり(兄)役/丞威 神村まこと(弟)役/濱田龍臣]が登場する。

 彼らは同じ殺し屋稼業であり一方は凄腕のプロ、もう一方は駆け出しのルーキーでありながら共通点が多い。殺し屋としてスキルや経験の差はあれど、仕事の失敗に悩み、金銭のやりくりに齷齪あくせくし、貧困に喘いでいて、毎日を必死に生きている (かなり自己責任的な様子で描かれているのだが)。

 彼らは立場は違えど、近しい悩みと価値観を持ち合わせているが、それが観客に多大な共感と悲しみを抱かせる。

 その二組が互いに宿敵として命のやり取りをせざる得ない状況に発展し、その戦いが熱気を帯びて白熱し、ボルテージが上昇すればするほど、両者は戦いの充実の中で生きる喜びを感じているかのように互いに笑い合う。

 その刹那の連続に殺し屋として、命の存在意義が光り輝くような感覚を覚えるが、同時にどちらかは死ななければならないという残酷な現実の影がチラつき、観る者の不安は増大していく。

 この映画を観たあと、言語化不能な感動と焦燥感、そして悲哀を覚えた人も多いのではないだろうか?

 今回は、そんなとんでもないレベルに邦画アクションを一気に押し上げた『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』に宿る「哀しさ」の正体について語りたいと思う。

■現代の権力者は「殺し合え」とは言わない。

 「いやいや、どの権力者も戦後日本社会において、国民に「殺し合え」とは言わないだろ!」と、それはそうである。とはいえ、これは物の例えで『ベビわる2』を見終えたとき不思議と思い出した映画がある。

 それは深作欣二の晩年作である『バトルロワイヤル』である。

 この映画ではBR法によってランダムに日本中から選定された中学校のひとクラスが、最後の一人になるまで殺し合うという物語で小説も映画も大ヒットし、社会では物議を醸した。

 この映画に登場する教師役のビートたけしは、強制的に拉致された生徒たちへ「今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます」と言い放つ。

 筆者はこの『バトルロワイヤル』が公開された2000年、ちょうど中学生であり、まさにバトロワ世代である(正直、タイムリーな流行にはついて行かない派のガキだったので、小説も映画も後追いでしたが……)。

 このビートたけしの「殺し合いをしてもらいます」発言には、ある意味この時代の空気感というか、ムードが集約されているように感じられる。

 ここでいう「殺し合い」は、当時の学生には「受験戦争」「就職戦争」であり、若い社会人には「出世競争」なのである。

 そして当時、子供と大人の境のグラデーションは希薄化し、どこかでキッパリと断ち切れ、今の言葉でいうところの"断絶"状態が如実であったように思い出す。

 この断絶の大きな一因は、80年代~90年代後半にかけて起こっていた一連の少年犯罪(横浜浮浪者襲撃殺人事件(83)、女子高生コンクリ詰め殺人事件(88)、神戸連続児童刺殺事件(97)など) にあるといえる。

「キレる10代」という言葉も既に久しいが、この頃の報道や社会言説には度々登場し「なぜ現代の若者は、感情の抑制が利かないのか?」といった疑念が中高年世代を覆っていたような空気感があり、それはしばしば映画やドラマといった様々なメディアで流布されていた。

 当時の大人の若者へ向けられた拒絶的な態度はざっくり言うと、高度経済成長期から続く学歴主義と、それに則った教育制度で育った団塊~バブル世代の中高年が、若者達がその前時代的な教育制度への疲弊と苦悩にある状態に、無関心なため気がつかず「俺たちの時代では普通だったことが、苦痛だなんて考えられない」という態度からくるもので、その無理解と誤認が産んだ恐怖感だったのだと推察する(余談だが、95年に放送され社会現象になった『エヴァ』はそんな大人の態度と抑圧からの逃避と反逆の象徴であることは言うまでもない)。

 よって当時の大人たちはキレる10代に対し、なぜキレるのかはよく分からないが、とりあえず俺たちが教わってきた「良い成績は、良い学歴を作り、良い就職をすれば、幸福が自動的に訪れる」と妄信し、子供たちへ「殺し合って、(受験)戦争に勝て!」という指針のまま対峙したのである。

 その時代を集約したのが『バトルロワイヤル』であり、それが「今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます(=大人の云うことを聞いて、競争で勝ちなさい)」という台詞なのである。

 少なくとも筆者が中学生だったころにはまだ「努力は実る」だの「夢を持ち続け、諦めるな」だの「希望こそが人生を輝かせる」的な標語やスローガンに溢れていたし、モー娘は明るい未来に就職希望し、日本の未来はウォウウォウでイェイイェイであり、小泉純一郎は「自民党をぶっ壊す」と嘯いて何となく未来に希望があるかのようなポーズを皆がこぞって演出していたのは思い返すと滑稽である。

 今となって改めて感じることだが、それは暗に社会全体へのポジティブな印象操作をすることで、競争社会という戦場で一人でも多くの国民に気持ちよく戦ってもらうための官民総出の大パフォーマンスだったのだが、しかし今の権力者は00年代のようなポジティブな社会高揚をすることはない(当時のようなスローガンは、今でもマルチの勧誘の口からはよく聞くが)。

 いつまでも続くと思われたバブルは崩壊し、9.11以降の対テロ戦争を始めた世界への追随を余儀なくされ、その間に大規模金融破綻(リーマンショック)に見舞われた挙句、ますます少子化が進む中で増税を繰り返し、突如コロナ禍を迎えたこの現代日本で「厳しい社会を生き抜くために、夢や希望を捨てずに努力しましょう」と言えるはずもない。

 その最中で政府の政策は、ひたすらに検討を重ねる(たまに加速して、いまは異次元までいっちゃった)態度(だけ)で、僅かながらの国民への支援政策と、その代償に軍事費増大に伴う増税へと、波風立てずに緩やかに邁進するには、国民へはギリギリ生きてゆける程度の自転車操業的生活水準を維持させて、生かさず殺さず放牧するのが吉なのである。

 そして今の権力者は「殺し合え」とは、決して言わない。もはやそんな言葉を投げかけなくとも、我々の日常生活は『バトルロワイヤル』の如く寄る辺なき、孤独と生活維持のためのサバイバルゲームへと変貌しているのだから。

■『ベビわる2』は現代の残酷転職失敗劇であり、その背後にあるのは責任分散型多層化社会。

 ここから『ベビわる2』の話です(前説長くてゴメンね)。

 冒頭にも記した通り、今作は殺し屋コンビの熱いバトルが繰り広げられる展開なのだが、主人公サイドのまひちさコンビとルーキー兄弟コンビの戦いは凄まじくも物悲しい。

 彼女または彼らは富める者でもなければ、幸福に満ちた家族関係も描かれず、ひたすら日々の生活の努力と細やかな出来事への喜怒哀楽がある。

 互いに似た悩みと近しい価値観をもった二組が、出会いのタイミングさえ違っていれば、殺し合わなかったかもしれないという可能性を互いに抱いた場面が、その戦いの不毛さと殺し屋という職業柄避けては通れぬ宿命の無情さに悲哀を感じ得ない。

 しかし、先の章で書いた『バトルロワイヤル』のように、この二組の殺し合いは誰かに「殺し合え」と扇動されて起されたものではない。

 ルーキー兄弟が、自身の生活向上と出世魂によって引き起こされた下剋上の闘争であり、その哀しき顛末は殺し屋という世界を用いて描いた、いわば残酷転職失敗劇でもある。

 そして『ベビわる』を創造した阪元裕吾監督の殺し屋シリーズには、殺し屋協会という世界設定が登場するが、今作で登場する二組の殺し屋コンビはそのどちらも殺し屋協会で、直接ないし間接的に雇われていた殺し屋である。

 事の問題は、殺し屋協会による下請け殺し屋業の非正規雇用問題に端を発した闘争であり、この映画の真の悪は殺し屋協会が殺し屋(=労働者)を使い捨てるという構造的問題であり、それはそのまま現代日本の抱える非正規雇用問題へとスライドして考えられる(殺し屋、殺し屋と何度も打っていると頭が変になりそうです)。

 更に秀逸なのが、この映画には分かりやすく権力者側(殺し屋協会の幹部)の人間が登場しないことである。あくまで登場するのは須佐野すさの(ラバーガール 飛永翼)という業務斡旋マネージャー的な存在であり、彼はあくまで殺し屋個人と協会を繋ぐ仲介者に他ならず、いわば中間管理職である。

 かつてヒトラーが地球上のユダヤ人を根絶やしにする野望を果たすために、ナチス高官らが考案したシステムは、大量虐殺の責任の所在を何重にも多層化と分散化を徹底することで効率化を実現したという前例がある。

 隠れ家を密告し報酬を得る者、取り締まる者、収容所の目的を知らされず移送する者、収容所で世話をし管理する者、処刑の許可を下し判を押す者、(目的を知らされずに)処刑場へ移送する者、手を下す者(最終的にガス室がその役目を担った)。

 何重にも虐殺の責任感情を分散し、まさに責任分散型多層化社会を作ることで協力者は皆「上司の指示に従っただけ」という精神的な逃げ道を作り、ユダヤ人虐殺を国民感情の操作によって効率化した。

 この映画を語るのにナチスのユダヤ人虐殺を持ち出すのも大袈裟だと思われるかもしれないが、殺し屋協会の雇用形態の不明瞭、不誠実さが招いたこの哀しき闘争に対して、須佐野というキャラクターが終始あっけらかんとして「なんか、うちで雇ってた連中みたいで」と軽々しく口にするところが、責任の無自覚さによる言葉と態度であることに他ならない。

 そして大事なのが、この須佐野の責任の無自覚さは『バトルロワイヤル』が大ヒットした背景に存在した、当時「キレる10代」への無理解、無関心なままの大人を彷彿とさせるのである。しかしこの須佐野を含め、現代の権力者は00年代の大人達のように「大人の言葉を聞いて、競争で勝ちなさい(殺し合って、勝ち残れ)」とは言わない。

 なぜならそんなことをわざわざ言い聞かせなくても、彼らは生活苦が故に殺し合い、潰し合い、優秀な人材だけが殺し屋協会(現代社会)で生き残ってゆく。そして彼らは入れ替え可能な人材に他ならないのであり、責任の所在を何重にも分散することで、その運営者さえも構造の残酷さに気付かない

 それを描いているのが『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』の恐ろしいほどの社会描写の秀逸さであり、今作で激しく命を衝突させた若き殺し屋4人の戦いの中で生まれる哀しさの本質である。

■最後に

 このような長い記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

 この記事の内容は、筆者のYoutube映画レビューチャンネルの生配信で『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』を特集した際に話した内容 (動画内では1時間22分辺りから) に、大幅な補足と詳細説明をしたものになっております。

 今回取り上げた『ベイビーわるきゅーれ』への愛に溢れる方へ、この配信を届くことを願っております(動画は二時間近くありますケドね……汗)

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