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プロ化の源流(5) 逆風と逆境に立ち向かった反骨の青年社長/秋田ノーザンハピネッツ社長 水野勇気

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 二十代の若者が秋田にプロバスケットボールクラブを立ち上げる――。そんな大胆な挑戦は成就した。大学進学をきっかけに秋田と出会った水野勇気は卒業後の内定を辞退。2008年からは「秋田プロバスケットボールチームを作る会」の活動に専念し、09年にはbjリーグ(当時)への参入が認められた。
 秋田ノーザンハピネッツは彼が27歳だった2010-11シーズンから「プロ」としての活動を開始した。日本のプロバスケがB.LEAGUEに一本化された今も、ハピネッツは屈指の人気チームで、しかも経営の健全性を保っている。
 全てが順風満帆だったわけではない。アリーナ、練習場の確保もゼロからのスタートだった。秋田はバスケが盛んな県とはいえ、県民にプロバスケの試合へ足を運ぶ習慣があったわけではない。
 そもそもチームは「作ってから」が本番だ。水野たちは知恵を絞り、人を巻き込み、クラブを成長させていった。bjリーグの仲間たちも、暖かくその動きを支えた。
 一方で水野の目と耳には ”応援” とはまた違う、厳しい意見も入っていた。今では完全に浸透しているチーム名、チームカラーも当初は ”叩かれた” のだという。水野社長のロングインタビュー第2回は、ハピネッツ創設期の ”戦い” について語ってもらっている。

[ Interview by 大島和人/Photo by 本永創太 ]

*この記事は試し読みです。全編掲載のダブドリVol.16はココから↓

―― プロバスケチームを立ち上げる活動を始めた当時、「どうせ無理だろう」「やめておけ」と言ってくる人はいなかったんですか?
水野 「秋田にプロチームなんてできっこない」と言った人は、それなりにいたと思います。ただ、否定的なことを言われても耳を傾ける必要はないと考えていました。なぜかと言うと、誰ひとり論理的に説明した人がいなかったから。そういうことを言う人は、論理的に説明してこないですから。
 僕はよく、中学生や高校生を相手に講演するとき、その話をします。人の言うことがアドバイスなのか、単なる否定なのか、自分で見極めるべきということです。否定的なことを言ってくる人はいっぱいいますけど、それが単なる否定なら、聞かなくていい。
―― 嫉妬とか「生意気だ」という感情から生まれる、建設的でない否定はありがちですよね。
水野 ほとんどが自分の勝手なイメージで「秋田にプロチームなんてできっこない」と言っている。僕は当時から「なぜ山形にできているのに、秋田はできないの?」と思っています。
―― 山形県にはJリーグのモンテディオがあります。
水野 そうです。モンテディオは当時(1年間の売上が)11億円くらいの規模でした。決して大企業をバックにしているわけでなく、全県で支える体制でした。当時、僕らがやろうとしていたのは1億から3億円のプロチームです。山形の人口は秋田より多いですけど、多いと言っても多少ですよ。秋田に3億のチームができない理由など、本当にないわけです。だけどそうは言っても、最初に1億円を集めなければいけないと言われていたので、それは大変でした。
―― 資本金を1億円集めるということですか?
水野 それ以外も含めて「ざっくり1億を集めなければいけない」みたいな考え方が、当時のbjリーグにありました。そうは言っても、そんな金額を集めたことなどない。できるかな?という不安は、間違いなくあったと思います。
 そのとき、すごく印象的だったことがあります。東京のベンチャーキャピタリストに会って「秋田でこういうことをやりたい」と話したら、サラッと「1億くらい何とかなるよ」と返ってきたんです。今なら僕も同じことを言えますね。経営が回るメドも立ったので、資本金としては8000万でストップしましたけど、集められることはやってみたら分かりました。

助けられたbjリーグ内の情報共有

―― ハピネッツがbjリーグに参入したのは6シーズン目の2010-11シーズンで、経営的に厳しくなっているチームも増えていた時期ですよね?
水野 どのチームも特に最初は苦労していて、それを知れていたので良かったと思います。初年度から黒字になるなんて、最初は想定していませんでした。
 当時のbjリーグは、とにかくチーム同士の情報共有をしていました。上手くいっていることはどんどん共有して、みんなでやっていくスタンスだったんです。僕らは最初の頃、それですごく助かった。立ち上げの頃は仙台の中村(彰久)さんとか滋賀の坂井(信介)さんに教えてもらいましたね。
 あとはお亡くなりになりましたけど、富山グラウジーズで一時期社長をやっていた篠田(豊行)さんから、お金を使わないやり方を色々と教わりました。
―― 富山がかなり弱かった時期ですよね。
水野 ただ、工夫してお金を使わないやり方をしていました。僕が最初に仙台から教わっていたのは(年間予算が)2億円強のモデルです。それをイメージしたんですけど、そんなやり方もできると知って、僕らは仙台と富山の中間でスタートしました。初年度から黒字化できたのは、最初にそういうモデルを知れたからです。あと当時は国の助成金があって、それを使えたことも大きかった。
―― 国の助成金がプロバスケにも出たということですか?
水野 当時はリーマンショック(※2007年から08年に起こった世界的経済危機)の後でした。厚生労働省の雇用創出基金事業という予算があって、僕らはちょうどいいタイミングでそれを使えて、助かったんです。
―― 融資でなく補助金ですか?
水野 バスケに絡めてチアとか、バスケスクールもあったかな? そういう事業をやれば、雇用が生まれますよね。それを進めていけば事業費と人件費をもらえる政策でした。当時、3000万円くらいもらったはずです。

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つづきは本誌で。次号Vol.17に第6回を掲載予定です!


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