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『ダブドリ Vol.13』インタビュー05 東頭俊典 & 矢野良子

2022年2月16日刊行の『ダブドリ Vol.13』(株式会社ダブドリ)より、東頭俊典コーチと矢野良子さんの対談の冒頭部分を無料公開いたします。進行はダブドリデジタル編集部・宮本將廣。

代表に行って、人生狂っちゃった(笑)。(東頭)

宮本 まずはダブドリのYouTube「東頭宮本バスケトーク」のご出演、本当にありがとうございました。
矢野 ハハハハ。こちらこそありがとうございました。
宮本 めちゃめちゃ反響が大きくて、続編をという話もたくさんもらったので、企画させていただきました。今回は東京五輪が終わって、これからのために改めて考えるべきことを、是非とも赤裸々に……(笑)。
矢野 赤裸々がポイントでしょ(笑)?
宮本 アハハハ。まず、2人のバックグラウンドを伺っていきたいんですが、東頭さんから簡単にお願いします。
東頭 僕は5つ上の兄と3つ上の姉がいます。うちは片親で、家に帰っても誰もいないので、本当はその学年ではミニバス入れないルールだったんだけど、7歳で特別にミニバスに入部させてもらったのが始まりですね。小5の時に家の都合で引っ越した学校にはミニバスがなかったので、札幌日大高校にバスケしに行ってましたね。
宮本 お兄さんが札幌日大ですよね?
東頭 兄が札幌日大でした。当時の札幌日大はメンバーが9人しかいなくて、僕を入れないと5vs5ができなかったんですよ(笑)。札幌日大から専修大に行って、ユニバの代表とかになった大渕幹大さんとかと一緒にやってましたね。
宮本 ちょうど札幌日大が強くなり始めた頃ですよね?
東頭 そうですね。北海道大会4位くらいで、全国に行けるかどうかの頃に練習に混ぜてもらってました。中学は選手兼監督をやってて、高校も家の都合で私学はダメと言われて、公立に行って悶々としてたら、アメリカの話があって、アメリカに行って、アメリカでバスケを間違って出来ちゃったって感じですね。
宮本 間違えてできたっていうのはどういうことなんですか?
東頭 メインのガードが捻挫して、同じポジションがいなくなったからですね。
一同 ハハハハハ。
矢野 あいつしかいないかってなったのね(笑)。
東頭 そう。しかも僕だけトライアウトが長くて、頑張ってたから切るに切れないみたいな感じでしたね。僕の大学はディビジョン3でした。ディビジョン1で色々あってできない人は、ディビジョン2ではできないけど、ディビジョン3ではできるんですよ。チームにはクロアチアとかリトアニアとかのプロレベルの選手がいて、ディビジョン1の有名なチームにも勝ってました。ディビジョン1のビラノバ大のスタートが翌年2人いるとか、ディビジョン3なのにプロが6人いて、NBAのスカウトもくるし、めちゃくちゃ強くて、ディビジョン3のデューク大みたいに言われてましたね。そこに日本人が入ることもありえないし、日本人初だから新聞とかもきて、今度は切るに切れなくなっちゃったみたいな感じでしたね。
宮本 注目度も含めてということですね。
東頭 そうそう。大学1年の時は、無敗でシーズンを終えました。ウィリアムズ大ってすごく強いところあるんですよ。
宮本 ダンカン・ロビンソン(マイアミ・ヒート) がいたところですね。
東頭 さすが詳しいね。そこにトーナメントのベスト8で負けちゃいましたね。大学卒業後はJBLの全チームにトライアウトを送ったけど、返事がなくて諦めました。でも、しばらくして4チームから返事がきて、2週間だけトレーニングして臨んだら、怪我をしてしまって、そこで引退でしたね(笑)。
一同 ハハハハ。
東頭 就職を決めたんですけど、通訳とかスタッフで何個かのチームから話をもらって……本当はとあるチームが決まってたけど、なんかダメになって……。そこに行くために内定してたの蹴ったんですけどね(笑)。その後に、三菱(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)が声かけてくれて、三菱からスタートしました。
宮本 すでに話の内容が濃いです(笑)。
東頭 その後はコーチ勉強でユタ大とか、デューク大とか色んなところに行きました。その後高校の先生を1年やって、日立サンロッカーズ(現サンロッカーズ渋谷)がたまたま人を探してて、コーチか通訳しか雇えない感じだったんですけど、千葉大学の日高(哲朗)さんが当時のヘッドコーチの小野秀二さんの先輩で、僕もお世話になってて、紹介してもらいました。
宮本 通訳もコーチもどっちもできるぞみたいな感じですか?
東頭 そうですね。トップチームの選手経験なしでスタッフに入るのは、殆ど前例がなくて、昔、いすず自動車に加藤(康洋)さんって人がいたんですよ。能代工業を出て、UNLV(ネバダ大学ラスベガス校)に行って、ヘッドマネージャーをやってた。トム・ニューウェルが日本代表のヘッドコーチをしてた時に、25歳くらいで代表のアシスタントをやってたんじゃないかな。その次が多分僕じゃないですかね。今は半分くらいは選手経験がないと思うんですけど、その先駆けが加藤さんになると思います。加藤さんはエリート中のエリートで、僕は札幌藻岩高校の……(笑)。
宮本 いやいやいやいや! 札幌藻岩高校だって札幌の中では優秀ですよ!
東頭 いや、誰も知らないでしょ(笑)。日立で4年やって、代表に行って……そこからですね。代表に行って、人生狂っちゃった(笑)。
宮本 書き方困るんですけど、狂っちゃったって(笑)。
一同 ハハハハハ。
東頭 自分が日の丸を背負えることがあると思ってなかった。そこで日の丸を背負わせてもらって、なんだろうな……色んなことを感じましたね。
宮本 代表ではどんなことされました?
東頭 当時、富樫勇樹(現千葉ジェッツふなばし)を15歳で、渡邊雄太(現トロント・ラプターズ)を17歳で日本代表に僕が入れました。その時に、A代表とアンダーカテゴリー代表のアシスタントコーチを僕が全部やったんですよ。それも多分史上初だと思います。
宮本 角野亮伍(現シーホース三河)をA代表に入れたのも東頭さんですか?
東頭 角野を入れたのは僕じゃないけど、強く推薦しました。A代表から逆算して、代表候補を45人くらい集めたんですね。ジョーンズカップに渡邊雄太とか富樫勇樹を連れて行って、世代を跨いだ混成チームを作りました。あと、僕がやってたのはひたすらロビー活動です。海外の代表チームが何をしているか。その時の情報を、佐藤久夫先生(明成高校監督)とかに伝えて、久夫先生は八村塁をポジションレスで指導して、富樫英樹先生(開志国際高校監督)とか井手口孝先生(福岡第一高校監督)は日本はガードだっていうことで、小さい選手にこだわるみたいな方向で、河村勇輝(東海大学)とか重冨兄弟(ライジングゼファー福岡)とかを育てたんです。
宮本 なるほど。その情報を元にそれぞれがどう育成をしていくか。
東頭 そうそう。それが僕の本当にやりたいことです。僕がやろうとしているのは、海外の情報を伝えることで、その解釈は自由なんですよ。それで発展していけばいいし、今も情報交換とかはしています。あとは八村塁(現ワシントン・ウィザーズ)とゴンザガ大を繋いだのも僕なので、海外から「どうやったらB.LEAGUEに入れますか?」とか、逆に「留学したいけどどうすればいいですか?」という問い合わせもたくさんくるから、その辺に対応していますね。

案の定、2日でやめたいと思いましたよ(笑)。(矢野)

宮本 矢野さんはどうですか?
矢野 私は徳島の田舎で生まれて、なにかスポーツやりたいくらいな感じでした。姉2人がバスケを始めて、貧乏家庭だったから、お下がりを着るという理由で母親にバスケを勧められ、バスケに入ったのが始まりですね。中学もそんな感じで続けて、高校に関しては続ける気はなかったんですけど、勉強もしてなかったし、高校のバスケ推薦の話が来たのでって感じですね。
宮本 そこから名門ジャパンエナジー(現ENEOS)に入るわけじゃないですか?
矢野 私は普通に専門学校か大学に行きたいぐらいにしか考えてなかったんですけど、長女が大学に行って、お金がかかって苦労して、次女(矢野優子)がジャパンエナジーに行ってお金がかからなかったから、「もちろんいくでしょ?」みたいな雰囲気があったんですよ。スカウトにきたのが高2の春なんですけど、母親と先生と当時の会社の人とコーチが学校に来て「今すぐ返事くれないと次の選手探しに行くから」みたいな、そんな感じでしたね。
宮本 そこで返事はキツくないですか?
矢野 複雑すぎて、私としては考える時間が欲しかったですね(笑)。
宮本 そうですよね(笑)。
矢野 もちろん高校の先生の意見は「行ってほしい」だし、母親は「一回持ち帰って考えますね」くらい言うのかなと思ったら、「私も行って欲しいです」でしたからね。
一同 ハハハハハ。
矢野 完全に母親の一言で入団が決まったという経緯ですね。次女からは「あんたみたいな練習嫌いのやつがきても絶対続かないからやめろ」って言われたんですけど、案の定、2日でやめたいと思いましたよ(笑)。
一同 ハハハハハ。
宮本 お姉さんもいて、妹もすごいよって目をつけられたんですか?
矢野 もう亡くなったんですけど、当時の徳島のバスケットボール協会の会長が、どうしても徳島県からバスケのオリンピック選手を出したいと言ってて、その時にちょうどうちの三姉妹がいたんですよね。その方が理事もやっていて、ジャパンエナジーがよく徳島で合宿をやってたんです。そういう流れもあって、目をつけていただいた感じです。
宮本 それなのにジャパンエナジーに行って、富士通に行って、トヨタに行って……ですよね?
矢野 そう(笑)。3年くらいで絶対辞めると思っていたんですけど、気づいたら20年過ぎてましたね(笑)。
宮本 矢野さんはフォワードやってて、シューターになるじゃないですか。
矢野 そうですね。私は高校まで4番だったんですけど、萩原美樹子さん(東京羽田ヴィッキーズHC)の後釜を育てるというので声をかけられたので、最初の2年くらいは本当に地獄でしたね。寝てる時以外は体育館にいましたよ。
宮本 寝てる時以外は……(笑)。当時はそれくらいが普通だったんですか?
矢野 そうですね、選手寮には色々呼び名がありましたからね(笑)。
一同 ハハハハハ。
矢野 当時の部屋は4畳半だし、体育館まで20歩くらいで行けるから、誰かが体育館でドリブルついてれば、音が聞こえるし、休みの日も休んでないような環境でした。
宮本 ジャパンエナジーには何年いたんですか?
矢野 8年ですね。その後、富士通が4年で、トヨタが8年ですね。
宮本 当時では異例の移籍でしたよね。
矢野 そうですね。時代的にも中々珍しかったですよね。それも色々ありましたけどね(笑)。
一同 ハハハハハ。
東頭 移籍した後は、ほとんど優勝とかでしょ? 負けてないよね?
矢野 シーズンは負けてないね。
東頭 試合はいつから出たの?
矢野 2年目のオールジャパン(現皇后杯)の後半にいきなりスタメンで使われたんだよね。前半20分は姉が出て……当時は前後半20分の時代ね(笑)。
宮本 懐かしいですね(笑)。
東頭 代表はいつから?
矢野 代表は、3年目から選ばれたり選ばれなかったりかな。定着したのは4年目、5年目からかな。
東頭 それでアテネ五輪に出場して、その後の予選もメンバー入りしてるよね?
矢野 北京とロンドンは最終予選だけ選ばれて行ってる。あの時も色々あったけどね(笑)。
宮本 色々がたくさんありますね(笑)。
一同 ハハハハハ。

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