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『ダブドリ Vol.17』インタビュー07 岡田卓也(GYMRATS)

2023年5月12日刊行の『ダブドリ Vol.17』(株式会社ダブドリ)より、GYMRATS代表取締役・岡田卓也氏のインタビュー冒頭を無料公開します。

2000年代、田臥勇太のNBA挑戦と時を同じくしてアメリカ独立リーグに飛び込んだ選手たちがいた。ロングビーチ・ジャムで田臥と共にプレーした中川和之(環太平洋大学女子バスケットボール部監督)や、オンタリオ・ウォリアーズ時代に田臥と対戦した宮田諭(東京ユナイテッドバスケットボールクラブ)といった選手たちである。岡田卓也もまた、独自のルートを切り開いてアメリカに挑戦したパイオニアの一人だ。NBAに二人の日本人選手、そして多くの日本人学生がNCAAでプレーする現在のこの状況も、彼らの挑戦なくしては起こりえなかっただろう。46歳にして今なおABAでプレーする現役選手であり、17歳にしてスペインでプロデビューを果たした岡田大河の父である岡田卓也に、アメリカでの経験や息子・大河選手について話を聞いた。(取材日:1月24日)

Interview & Photo by 大柴壮平

ペニーと1on1をやって「あ、NBAは絶対無理だ」と悟りました(笑)。

大柴 バスケはいつから始められたんですか?
岡田 小学生の時に剣道をやっていたんです。恥ずかしい話なんですけど、剣道で女の子に負けて、そこからバスケをやり始めました(笑)。
大柴 なんでバスケだったんですか?
岡田 うちの母がバスケットをやっていたので、その影響です。小学校にたまたまミニバスが出来たのもあって始めました。
大柴 ミニバスから中学校、高校までの経歴を教えてください。
岡田 特に何もないですよ。中学校の時は県大会にも行ってないですし、高校は静岡から日大三島(日本大学三島高等学校)に行ったんですけど、県でベスト8ぐらいまでしか行けませんでした。でも高校の頃の恩師からバスケットのメンタルの部分とか、ガードとしてのイロハを学ぶことができました。
大柴 あれ、大学はたしか日体大でしたよね?
岡田 そのまま日大に進学したら選手じゃなくてマネージャーになると言われたので、一般受験して、日体大に入りました。当時の日体大は負け無しで、チームが7軍まであったんです。
大柴 7軍ですか(笑)!?
岡田 はい、大変でした(笑)。結局僕は1軍のメンバー表に入るところまではいけたんですが、試合は2軍Aで出ていました。
大柴 当時の1軍の人たちと自分を比べて、レベル差は感じました? それとも追いつけるという感覚でした?
岡田 同期に仲村直人(元日本代表。松下電器、他)、下に大野篤史(元日本代表。現三遠ネオフェニックスHC)とか篠原隆史(元日本代表。キャリアを通して東芝でプレー)なんかがいました。月バスで見てた有名選手たちだったから、最初は「すげぇ!」と思っていましたけど、慣れたら気にしないようになりましたね。彼らにも負けたくないと思いながら練習していました。
大柴 大学でプレーしていた岡田さんですが、どういう経緯でアメリカに行くようになったのでしょうか?
岡田 ちょうど大学2年生の時に日体大が持っているプログラムで1ヶ月の短期留学があったので、それに参加したのが最初です。それで「アメリカっていいな」と思って、3年生の時にもペニー・ハーダウェイ(4度オールスターに選ばれたNBAのレジェンド。現メンフィス大HC)のキャンプに行ったんです。周りがほとんど黒人ばかりの中で僕がMVPを取ったので「誰だこいつ?」という雰囲気でした。そこでペニーと1on1をやらせてもらったんですけど「あ、NBAは絶対無理だ」と思いましたね(笑)。
大柴 ハハハハハ。
岡田 ドリブルの幅が全然違いました(笑)。
大柴 当時のペニーなんてトップ・オブ・トップでしたからね。

僕がアメリカに行って感じた日本との差は、個人練習の質の差でした。

大柴 大学卒業後は、日本リーグのさいたまブロンコスでプレーし、その後アメリカのABAに挑戦という異色のキャリアを歩まれています。
岡田 ブロンコスの前もアメリカと日本を行き来していたんですよ。日系人リーグに入れてもらったり、ナイキが主催している「リアル・ラン」というサマーリーグに出たりしていました。
大柴 失礼ですけど、その頃ってバスケで生活できていたんですか?
岡田 いや、日本で三ヶ月ぐらいバイト頑張ってアメリカでプレーして、また稼ぎに日本に帰ってくるというのを繰り返していましたね。
大柴 すごいバイタリティ(笑)。
岡田 お金はABAの初期も大変でした。3シーズンさいたまブロンコスでプレーしたあと、ABAのイングルウッド・コブラーズというチームに契約をもらったんですが、1試合やっただけであとはキャンセルになってしまいまして。
大柴 それはオーナー側に問題があったのでしょうか?
岡田 そうだと思います。チームは強かったんですけど運営が上手くいかず、試合はないしお金も払われないしで、当時は結構病みましたね。しかもブロンコス入団前に結婚して、その頃にはもう来夢(アリゾナ・ウェスタン・カレッジ)も大河(サンクロレラ・ドラゴンズ)も生まれていたのに三人を置いてアメリカに来ていたので、家族に申し訳ない気持ちでした。
大柴 じゃあ挑戦している間は奥さんが一人で子育てされていたんですか?岡田 そうです。最低ですよね。
大柴 いやいやいや、本当は仕事として成立するはずだったんですもんね。でも奥さんはすごいですね。理解があるというか。
岡田 実は来夢が生まれた時にバスケを辞めると言ったことがあったんですけど、やらせてもらえましたね。それで今に至っているので感謝しています。
大柴 そのどん底時代を乗り越えてABAでプレーを続け、2010年からは岡田さんの運営する静岡ジムラッツとして参戦しています。
岡田 僕がアメリカに挑戦している中で、やっぱり世界との差を感じました。そこでその経験をシェアしたり、日本人の選手に実際に経験してもらったりすることが大事だと思って始めたのが静岡ジムラッツです。
大柴 現在はジムラッツとしてスクール運営もしているということで、アメリカの技術を日本に伝えるという方針を今も一貫していらっしゃいます。特に岡田さんが最初にアメリカに行かれた頃は今と違ってスマホも無いし、まだアメリカと日本の違いを具体的に説明できる人が少なかった時代だと思うんですが、当時日本の選手に一番伝えたかったのはどういう点でしょうか?
岡田 一番違ったのは個人練習の質でした。当時の日本はみんな同じメニューをこなすことが多く、ハンドリングドリルとかインディビジュアルのトレーニングがほとんどありませんでした。
大柴 今でこそ日本にもスキルトレーナーがたくさんいますが、まだそのジャンルが確立されていなかったんですね。そう言えば、僕は比留木謙司さん(トライフープ岡山HC)とポッドキャストをやっているんですが、岡田さんにインタビューすることを伝えたら「僕もワークアウトを受けたことがあるんです。最先端の技術を教えてくれるのはいいけど、厳しすぎてこなせませんでした」って言ってました(笑)。
岡田 (爆笑)。あの頃は比留木がサンディエゴのバーで働いてたときですからね(笑)。
大柴 それは厳しいですね(笑)。

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