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死ぬ前までに食べたい100の美菓 その1 求肥菓子

美味しいお菓子 美しいお菓子 それを美菓と呼びたい。

さて、来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、吉高由里子ちゃん主演で、「世界最古の女性文学」と呼ばれる「源氏物語」を書いた紫式部の生涯を描くドラマだそうだ。

私が気になるのが、紫式部より平安時代に宮中で作られた京菓子が登場するかしないかで、またその当時はどんな職種の人たちが菓子を作っていたかだ。

紫式部、和泉式部や清少納言は、その時代、宮中に仕える女房(にょうぼう)と呼ばれる職種だった。しかし、この三人は死別や離婚で独身だったといわれ、現代で言われる、奥様、女房ではなく、宮中ではたらく「宮仕え」の女官のうち上級女官で、それぞれに房(部屋)が与えられていたから女房と呼ばれていた。

この女房の下に、江戸時代の大奥のように、いろんな職種の女官たちがいたわけだが、後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)という役所があり、書司(ふみのつかさ)とか薬司(くすりのつかさ)、兵司(つわもののつかさ)などの専門職が置かれた。

そのうち、宮中の宴などに出される飲食は、水司(もいとりのつかさ)、膳司(かしわでのつかさ)、酒司(みきのつかさ)などが担当し、その中に正式ではないが、菓子司があったようだ。
少し前置きが長くなったが、京菓子の原点の一つが大福餅などになる求肥だ。

元々、求肥は中国の唐の時代に玄米と黒砂糖で作られた菓子で、日本に唐菓子として伝わった求肥も、この時は色が牛みたいに薄黒かったことから「牛皮」と呼ばれていたという。

ところが平安時代に入り、ある菓子司が牛皮を作ったところ、女房の誰かか僧侶からか、食べては美味しいが名前が牛皮ではあかん、仏教の教えに、牛豚などの四つ足の動物は食べない、だから牛皮ではなく求肥と名を変えよるよう、またついでに黒砂糖ではなく白砂糖を使うよう命じられたそうな。

「肥」という字は、「肥える、太る、滋養」という意味があり、「滋養を求めるから求肥、いい名前じゃないか」ということで、求肥もちの応用が始まったとされる。平安時代は小肥りの女性が人気になっていたのは余談になるが。

お菓子が出てくるシーンを大河ドラマでやらないだろうか。

さて、筆者が住む山形県鶴岡市を代表する求肥を使った菓子といえば、鶴岡木村屋の古鏡がある。

しかし、この古鏡、普通の求肥菓子は求肥が餡を包む形ではなく、反対に求肥を特製の餡が包んでいるのだ。その製法は100年以上、企業秘密になっている。最初に餡を味わい、後からトロッとした求肥を味わえるのが面白い。

江戸時代に入り、幕府の使節が上洛した際、初めて宮中で、「ぎゅうひ」を味わい、その旨さが忘れられず、江戸に帰ると、京都の名菓子司を召し出して江戸で作らせたといわれている。

また、熊本には「朝鮮あめ」と呼ばれる求肥菓子がある。あめと呼ばれたり、もちと呼ばれたり、求肥菓子はまさに和菓子の基本になっている。

さぁ、今日は鶴岡木村屋の古鏡でも食べてみようか。小肥りジイさんになるかな?

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