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死期

 世の中には自分とそっくりなひとが三人いると、誰かがもっともらしくいっていた。そのときはそんな馬鹿なと思っていたけど、「ふたりのベロニカ」という映画を観たとき、そういうこともあるかもしれんなと、少し気持ちが傾いた。しかし、ここにきてその傾きは急勾配となって、ぼく自身を不安のどん底に滑り落とそうとしている。
 
 この一ヶ月あまりの短い期間に、自分とそっくりのひとを数回、少なくとも三回見かけているのだ。それもいまの自分の姿ではなく、いろんな時期のぼくにそっくりなのである。
 たとえば四日まえ、深夜にはいったラーメン屋さんのカウンターの向かいに、二十歳そこそこの、学生らしきひとが、大盛りのみそラーメンを食べていた。ぼくも彼くらいの年代のときは、いつも決まってみそラーメンの大盛りだった。
 なぜ彼が目がいったというと、若かりし自分の髪型そっくりそのままだったということがある。

 いまでこそ禿げてしまったが、当時は腰まである長髪で、左手で髪をかき上げながら麺をすすっていたものだ。そんな髪型はいまどきどこにもいやしないし、否が応でも目につくというものだ。
 カウンターに腰掛け、すぐまえのコップに水を注ぎながら、彼の姿を見つけ、おいおいまじかよ、山下達郎じゃあるまいしと、やや嘲る気持ちが起こったのも束の間、そのときふとあげた顔がまさに若かりし自分の顔そのものだったから、腰が抜けるほど仰天した。
 あわてて目をそらしたものの、どうしても気になって、チラチラと盗み見ては、胸のあたりがもうもうとしていた。ほどなくきた好物のつけ麺もまったく味がしなかった。もうこれは確実だと、観念せざるを得なかった。

 そのまえにも予兆はいくどかあった。でもずっと他人の空似とやり過ごしてきた。最初に現れたのは、一ヶ月ほどまえの銀座みゆき通りだった。おっと思ったのは男ではなく、二十年ほどまえにいっとき付き合っていた女のほうであった。彼女にあまりにもそっくりな女性が、すぐ脇を通り抜けていった。久しぶりにはっとしてときめいた。しっかりと正面から見たから間違いない。彼女だ。しばらく立ち止まって逡巡したが、やはりどうしてもと思い、踵を返し、人波をかきわけて彼女を追った。
 しばらく行くと彼女の後ろ姿が見えた。横に並んでのぞきこもうとすると、彼女のすぐ隣に三十代の自分がニタニタといやらしい笑い顔でいるではないか。その手は彼女の腰にまわされていて、ふたりがただならぬ関係であることは一目瞭然だった。そんな馬鹿なと、ぼくはその場に立ちつくし、そのままふたりを見送ったのだった。

 その次は、ほどなくやってきた。友人の墓参りにいつもの寺に行き、墓石を洗ったり、線香をあげたり、ひと通りを済ませて車に戻ってくると、その広い駐車場のすみでメンコをしている子供たちがいた。
 メンコとはずいぶん懐かしいなと、つい足を止め、しばらく離れたところから眺めていたが、そのうちどうしても近くで見たくなって、そろそろとメンコをしている輪に近づいていった。

「懐かしいな、メンコなんて。ちょっと見ていいかい?」
 そう声をかけると、びっくりしたように子供たちは顔をあげ、ゆっくりうなずいた。そのなかでただひとり、懸命に打ち続ける子供がいて、その子が最後にぼくのほうに振り返り、
「おじさんもやる?」
といった。それが小学生だったぼくそのものだった。
 ぼくはすくんで、しばらく動けなかった。ゆっくりとあとずさって、車にたどりつくのがやっとだった。

 もうひとりの自分と出会ってしまったひとは、行く末長くないと、もっともらしく誰かがいった。そんな馬鹿なと、いまになって思う。ぼくはまだまだやらなければならないことがあるのだ。そう簡単に死んではなるものか。

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