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「サウルの息子」の音

 それほどたくさんの映画を観てきたわけではないけれど、これほどまでに「苛烈な」状況を描いたものがいままであっただろうかと、動悸がして息が荒くなった。極度に被写界深度の浅い映像にも驚いたが、それよりも職業柄か、とても丁寧につけられた「音」に注意がいった。
 まさにその冒頭において、ここがどこであるのかが、画を見ても、音を聞いてもわからないのである。視界が狭い分だけ、ぼくは耳で情報を得ようとする。そのときに聞こえてくる音が、どうにも判然としない。ボリュームは大きいし、左右でまったくちがった音が鳴っていたり、遠近感もつかめない。
 しかしそれは、たとえるなら「混沌」と呼ぶにふさわしいと、劇場ではやりすぎのように思った音構成も、その後にわかるさまざまな状況を表すには最も適した音の配置と大きさであったと、そんなふうに思い返す。

 ぼくは自問する。録音を生業としているものとして、あの「シャワー室」の鉄の扉から、いったいどんな音が聴こえてきたというのだろうかと。それを映画のなかで、あらためて再現するには、つまり「そのときの音」をどのように作ったらいいのかと。
 それは、「シャワー室」のなかで起こっていることに、どれだけのリアリティを持って想像することができるのかということにほかならない。

 阿鼻叫喚とひとことで言っても、でもそんなもの聞いたことあるだろうかと思う。おそらく阿鼻叫喚というものを自分の耳に響かせることは到底できない。
 そのとき、背後からの怒鳴り声に押しつぶされそうになる。
「働け!働け!」
 その怒号に前後不覚なまま、ぼくは仕事を続けようとする。広めの部屋にこどもや老人をふくめた何人かの役者たち、だいたい30人くらいを入れて、マイクを引いたところに二本たて、トークバックボタンを押して、なかにこう呼びかける。
「上から毒ガスが噴射され、息が苦しくなった状況を思って、それぞれに叫んだり、助けをもとめたりしてください。それでは録音します。目の前の赤いボタンが点灯したら、はじめてください。」
 みな役者さんだから、それなりのことができて、音は録れる。それなりの音。でもそれはほんとうだろうか。広い録音ブースのなかにいる役者さんも、コンソール卓の前にいるぼくも、横にいる監督も、実は、だれひとりとして、この「シャワー室」のなかを真摯に思うことができないのではないだろうか。
「働け!」
と、また声がする。
 いま録ったこの声にかぶせるように、次にドアを叩く音をつけていく。ドンドンドン。これをイコライザーでこもらせて、リバーブを深めにかけてみる。音編集のソフトを使えば、それくらいのエフェクトはなんということはない。そして、最後にそれらを音量調節して、重ね合わせて、大きめのモニタースピーカーからだしてみる。
「ドンドン、ドンドン、たすけてー、く、くるしい。ドンドン、ドンドン、うわー、ドンドン」
 聴きながら、ほんとうにこれでいいのだろうかと自分に問いかける。無力に立ち尽くした想像力しかない、そんな仕事でいいのだろうか。

 かつて実際に「シャワー室」の鉄の扉の奥から聞こえてくる「音」に震えたひとたちがいる。そのひとたちにたずねてみたい。それがいったいどんな「音」だったのか。

 冒頭の「混沌」の音に引き込まれたまま、ぼくは常に自分に問いかけながら「サウルの息子」を聴いた。そしてここに聴こえてくる音像こそが、英知に富んだ、そして人間性に溢れた録音チームの、力強い仕事だと感じた。
「おまえもこい!」
サウルはその鉄の扉まで引っ張られていく。そして片耳向け、扉の向こうに集中する。ぼくはそのときスクリーンから漏れ出てくる音に戦慄した。
「働け!」
 怒号が飛ぶ。そうだ、ぼくは働かなければならない。徹底的に想像することだ。全身をそばだて、そこでなにが起こっているのか、どんな音がしているのか、それを聞き取る努力を死ぬ気でやらなければならない。映像に関わるというのはそういう仕事なのだと思う。

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