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「自衛」のこと

 週末の下北沢は、ここ数ヶ月の記憶と風景を砂塵とするようなにぎわいだった。コロナウイルスなどはすでに遠い昔のことかと、一瞬、いまいる場所を見失う。もはや「なにが起こっても不思議ではない」感覚が、いつの間にか身体に付着している。これこそが「ウイズ・コロナ」なのだろう。
 シベリアで38度を記録したり、すぐ足元の地殻プレートが不穏な動きをしていたりと、異常気象や大規模災害が、隣り合わせにある日常に、ぼくたちは生きている。それでも週末の下北沢は楽しい。ぼくにはどうすることもできないのだ。大きな地震をとめることも、地球の温度を冷ますことも、行政の私物化も、いじめも、不景気も。
 せめて備えることだけはしておこうと思う。現職都知事がいうところの「自衛」だ。こまめに手を洗い、缶詰を買い、避難経路を確認する。家具を止め、換気をして、そして選挙に行く。雨が降り続ければ不穏に感じ、早すぎる真夏日にはなにかがよぎり、夜中の揺れに過敏に身構える。

 地下鉄サリン事件、福島第一原発事故、コロナウイルスの世界規模での拡大。それは、起こる寸前まで思いもよらなかったことだ。
 考えもしなかったことが、ある日突然「起こる」ということを、これまでなんどか学習してきた。しかしそれを止める手だても力もない。ただその不安に押しつぶされていては、日々の暮らしがままならない。ひとの知恵ができることは、その不安と仲良くつきあっていくことらしい。最悪の事態を考えないこともまた処方箋となろう。
「そんなこと、起こるわけがないよ。」
そううそぶいていた友人も、このコロナ騒動のさなか、自室で息をひそめながら、なにかを思ったことだろう。

 たくさんのひとで賑わう週末の下北沢。もはや補償するお金は底をついたのだから、あとは自分たちでなんとかしてほしいと「自衛」は呼びかける。ぼくたちはまたひとつ「なにが起こっても不思議ではない」という感性と思考の抗体を作り上げたのかもしれない。そうして麻痺していくとしたら、副作用は甚大だ。これからやってくる自然災害も経済の破綻も、そして大きな戦争も、思考と感性の免疫抗体があれば、やりすごせるにちがいない。
 ある日突然むかえる「破滅」の途上にあるとして、ただそれは一瞬のことと願いたい。ジワジワと滅していくだけの耐性と抗体は、まだ持ち合わせていない。はたして「自衛」は、そこまでの用意をしておけということも含まれているのだろうか。
 真の「自衛」は、抗えない大きな力から目をそむけることではなく、小さな手足をばたばたと動かし、頭を働かせ、協力して、「滅していく」未来の方向を少しでも変えていくことだと思う。「なにが起こっても不思議ではない」のがいまの状況なら、もはやこれまでの反復は茶番でしかない。自然災害に、疫病に、経済破綻に、戦争に、備えていくための転換を実践していかなければならないだろう。「明けない朝はない」なんて言うけれど、死んでしまえば朝はない。

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