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笛の音

よく晴れた夏の夕方の空の下、そこは絵に描いたようなのどかな田園風景がひろがっている。片田舎の無人駅のホームにたっているぼくは、一日に一本しかない一両編成の列車の車掌だ。
気持ちのいい空気をお腹いっぱい吸い込んで、もう長いことこの駅にとどまっているような気がするが、時計をみると間もなく出発の時刻である。車内をのぞきこむと、席は八割がた埋まっているようだ。

駅に続くあぜ道には乗り遅れまいと走ってくる学生達の姿が見える。ようやっとクラブを終え、急いで着替えてやってきたにちがいない。そんなにいそがなくても大丈夫。まだ少し時間はある。
学生達のすぐあとには、助役さんをはじめとする役場勤めの人達、さらに野菜をかついだ行商のおばさんたちの一団がつづいて見える。そればかりか少しずつ間隔をおいていくつもの集団や人々がこの駅、この列車に乗ろうとこちらにむかってくる。

「みなさん、急いでください。この列車は 間もなく出発します。」
ぼくは山のほうを向いて大きく声をかける。
声がとどいたかどうかしらないが、みんな必死の形相で足を速めているのがわかる。学生達、助役さんたち、行商のおばさんたちが乗り込んで、あらかた車両はいっぱいになってしまった。学校の先生たちや営業で出張してきたサラリーマンたちが駆け込んできたころには、車内は寿司づめ状態の混雑になった。

腕時計をみるとあと数秒で定刻だ。しかし列車に乗り込む人達はあとをたたない。駅につづくあぜ道にも、人影が途絶える気配はない。
時間だ。
車掌のぼくは、ドアからあふれた人たちをなんとか押し込め、出発の笛を白手袋の手にしっかりとにぎる。待ってくれと懇願するように手をふる農家のおじさんを横目にみながら、車掌室にもどると、運転席から早く列車をだすようにうながすベルがいらだだしげに鳴り響いていた。

笛をくわえたぼくの足元を、赤いランドセルの女の子がさっとすりぬけて車掌室に入ってきてしまった。
「だめだよ。ここは」
と言いかけたぼくを押し退けるように、今度は綺麗な着こなしの和服の婦人たちが車掌室に乗り込んできた。車内にはもう人が乗れる余地はなかった。

時間はすぎている。運転手からのベルがけたたましく鳴る。
扉を閉めなければ。それがぼくの仕事だ。あわてて開閉レバーを下げる。しかしだれかの手がはさまって完全にはしまらない。手がはさまっているふたつめのドアにむかう間にも、息をきらせた人達が車掌室に駆け込んでいくのが見える。

ドアのむこうからはさまれた手の主か、「いたいいたい。」と声がする。ドアを左右に、力いっぱい開き、手がなかにはいるのを待つ。しかし逆になかの圧力が強いのか、ひっこむどころかさらに肩まで押し出され、腕いっぽんがまるまるでてくる始末だ。
こんなことははじめてだ。見渡す限り人家もみあたらないような無人駅の単線列車が、いったいどこにこんなにいたのかと思うくらい人であふれかえっている。そればかりかまだ乗ろうとする人達があとをたたない。
もうだめだ。これ以上は乗せることは出来ない。容量的にも、時間的にも無理なのだ。

ぼくは出発の笛を力一杯吹く。

と同時に列車はゆっくりと動き出した。車掌室にもどろうとするが、そこはもうすでに人でいっぱいで、ぼくの居場所などとうになく、ただホームに立って、乗り遅れた人達とともに列車を見送るしかなかった。
背中には、何十人分もの息をきらすゼイゼイいう声と足音、そしてなぜ私達を残して列車を発車させたのかと無言で問う批難と恨みの視線を痛いほど感じていて後ろを振り返ることができなかった。

小さくなった列車のドアからにょっきりと出ていた腕が、こちらにむかって「バイバイ」と手を振るのが見えた。

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