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戦争の時代

 いよいよ実際に「やる」やつがでてきたかと、暗澹たる気持ちになる。「ヘイト」とは、自ら能動的に変えることが不可能な特性、特質を憎み、差別することだとするなら、「津久井やまゆり園」で起きた無差別殺人は、まごうことなきヘイトクライムだ。
 ヘイトスピーチのように「でていけ!」だの「抹殺せよ!」といった嫌がらせと憎悪の拡散を企図してきたひとたち、あるいはそれに参加しなくともその内側に賛同や快哉を叫ぶひとたちがいたとして、それが実際にこうして行動に移されることは、ある意味、考えもしなかったことだろう。
 しかしこうして起こってしまった。これまで押され、軋みをあげていた扉の鍵が、がちゃりと外れ落ちたように思う。

 これは世界中でいま現在起きているテロや人種間紛争、宗教をめぐる戦いの常態化と、おそらく無関係ではないだろう。ぼくらは日々そのニュースのなかで、大量のひとがそういった理不尽な死に方で生命を落としていることに慣れっこになってしまい、心を動かさなくなっている。感情が麻痺してしまっているといってもいいかもしれない。
 ひとが死ぬことに対して、なんとも思わなくなっているなら、それはもうすでに「戦時下」にあると思って差し支えないのではなかろうか。インターネットの普及で世界はぐっと身近になった。それとともに世界のあちこちで起きていることの影響から、いかんともしがたく逃れられなくなっている。
 そして世界はいま紛争の真っただなかにある。その空気や印象は、まるで疫病のようにぼくたちの生活のなかにも浸透してきている。いつの間にか、自分もその戦いのなかにあると錯覚してくるひとがでてきても不思議ではない、そんな環境が熟成されてきたのだと思う。

 そしてタガがひとつ外れた。国を想い、総理大臣にその計画を取り次いでもらいたいと願い、そしてその行動を讃えてもらおうと一心不乱に刺した「戦士」を、単なる薬物中毒のサイコパスに仕立てあげるのは、あまりに短絡すぎはしないだろうか。
 この「戦士」を実際の行動にまで押し上げる、そんな空気や時代というものを、もっと言挙げしていかないと、この壊れた扉の鍵は落ちたままになってしまう。そして次々にその鍵を踏みつけてあとに続く「戦士」たちがでてこないとも限らない。

 この事件で、日頃よりヘイトスピーチなどの威嚇行為の矛先になっているかたがたは、たいへん恐ろしい思いをされているのではないか。つぎは自分たちのところにやってきはしないかと、そう考えて震えているのではないだろうかと、そう思うだに胸が痛む。この事件の副作用はあちこちにばら巻かれているにちがいない。
 神聖と浄化にとり憑かれ、「異なるもの」の排除と排斥を行動と思想の規範とするひとたちは、残念だけれど、確実にいる。
 有事を煽ることは、かれらを勢いづかせることになりはしないか。時代の雰囲気は、願わざる方向に向かっていることと、今回の大量殺人はどこかで繋がっているように思えてならない。

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