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よこはまで

(1)
 
横浜、よこはま、YOKOHAMA、ヨコハマ。
横浜にはストーリーがよく似合う。物語はいつだって、「ここにないもの」「ほかとはちがうもの」を欲しがっている。異文化が醸し出すアトモスフィアが、使い古された話にきらびやかな色彩を、そしてときに陰影に富んだ光をあたえてくれる。それはあたかも虹色のフィルター。トーンを消し去る色眼鏡のように、見るものすべてを照らし、隠してくれるにちがいない。
きょうもまた横浜のどこかで、物語が生まれている。
 
「こう雨がつづいちゃあな‥。」
 男はうらめしそうに窓を見上げる。火をつけたばかりのタバコをひと口吸い込むと、女はそれを差し出した。
「いいじゃないの。こうして日がな、ふたりでゴロゴロするのもさ。」
 男は半身になって紫煙をくゆらせる。
「んなこといったって、稼ぎがなくっちゃ干上がっちまうよ。おまえを抱いて金になるんならいいけどよ。」
 安普請のアパートの廊下を男たちが歩く。キシキシという足音と、長雨を恨むニコヨンの愚痴が聞こえてくる。
「三ちゃんたち、もどってきたみたいね。」
 日はとうに暮れていた。
「なに食べるかな。はらへってきたよ。」
「あっしがおごるからさ、中華街までいかない?」
「いいのかよ。」
「いいんだってばさ。」
 そういうと女は脱ぎ捨ててあったTシャツをストンとかぶった。男はタバコの火を消すと、ゆっくり起き上がる。
「豚足に紹興酒がいいな。おい、中華街に行くんだからよ、ブラジャーぐらいしていけ。」
 手ぐしで髪をときながら、女がすっと立ち上がった。丸い尻が桃のようにつやつやして、なんだか無性に食べたくなった。
 

(2)
 
横浜、よこはま、YOKOHAMA、ヨコハマ。
横浜は禁じられた恋の街。全国で一番ダブル不倫が多い街だと風のうわさにきいた。その真偽はさておき、許された恋などは恋とはいえないとばかりに、みなとみらいが一望できるあのホテルは、今夜も禁断の満室であった。
 
「この景色はかわらず綺麗ね。」
「半年ぶりかな。」
 窓際に立ったふたりは遠く海へとつづく夜景を見ていた。
「最後って言ったのに‥。」
 小柄な女は見上げるようにして振り返った。大きな手が肩に置かれた。女はビクッとする。わかっていたはずなのに、かぶさるように後ろから近づかれると、足が震える。わたしは大きい男が好きなのだ。ぜんぶを包み込んでもらいたくて、その身体のなかで丸くなって溶けていきたい。
「美味しかっただろう、あのアワビ。」
 女はふと我にかえった。
「大きかった。おなかいっぱいになったよ。」
「ほんとに。」
「雰囲気のいいお店だったね。だれと行ったのかな。」
「はは、役員たちとだよ。馬車道には美味しいレストランがたくさんあるんだ。」
「ほんとかな。」
 男はうしろから小さな女を抱きしめた。吐息のような、音にならない声がもれた。押されるように重心をうしなって、左手が窓ガラスについた。ふたりの顔がガラスに映って、その向こうの観覧車が七色に光をかえた。まるでこちらを見ているようだった。それを避けるように男のほうに身体をひねる。
 アワビは小ぶりなほうが美味しいのよと、そう言おうとしたくちびるは柔らかく蓋がれた。
 
 
(3)
 
横浜、よこはま、YOKOHAMA、ヨコハマ。
ヨコハマには希望がよく似合う。それも故郷に錦なんて田舎くさい希望なんかじゃない。もっと舶来の、異国の匂いかぐわしい希望だ。
映画「ララランド」を観たとき、あっこれは舞台がヨコハマだと思ったのは、ぼくだけではないだろう。広いヨコハマのなかでも、おとぎの国山手をくぐって抜けたトンネルの先、本牧こそが「ララランド」と呼ぶに最もふさわしい。
いつまでも色褪せることのない夢とともに、希望よ、つづけ。
 
「ああいやんなっちゃう。」
 女は鏡のまえで、すこしイライラしていた。どうやらセットが思うようにいかないらしい。
「ここんところ急に髪が減っちゃってさ、ポニーテールがうまくいかないよ。」
「そんなことないだろう。」
 オレンジ色のアロハを羽織った男が洗面台の鏡をのぞいた。
「まあね。赤いほうのリボンをつければ大丈夫だよ。」
「もうすぐ還暦だっていうのに、あんたはいいね。びしっとリーゼントになるもんね。」
「わかめ、食べてるから。」
「うしろのチャックたのむわ。あたしもわかめ食べよう。」
 女は鏡からいちども目をそらさない。せわしなく手を動かしては、全身のチェックに余念がない。細身のデニムのボタンをとめると、男はぶっきらぼうに問いかけた。
「で、どうする?」
「なにが?」
 問いかけにもどこか上の空だ。よっぽどポニーテールが気に入らないらしい。
「ジュークボックスの修理代が50万かかるんだよ。どうしようかと思ってさ。」
 女はくるっと向きをかえる。
「そんなのなんとかしなさいよ。あのジュークボックスがなくなったら『HOPE』はただの居酒屋じゃない。」
 男は女の腰を抱き寄せ、ことさら甘い声をだしてみせた。
「なあ、たのむよ、すこしばかりさ。『HOPE』のためにもさ。」
「ちょっとやめてよ。せっかくセットしたのに。いいから電話して。ドトールに朝ごはん食べいくよ。」
 すげなくされた男はしぶしぶと身体を離した。ポケットにさされた大きな財布を撫でながら、受話器をとった。
「あ、退室します。」
 その大きな財布には、男の小さな夢をささえるだけの希望が、もはやいくばくかしか残っていなかった。
 
 
(4)
 
横浜、よこはま、YOKOHAMA、ヨコハマ。
野毛の「ちぐさ」で、ジム・ホールとレッド・ミッチェルのデュオをリクエストする。1978年、スイートベイジルでのライブ盤だ。冗談みたいにでかいスピーカーがレッド・ミッチェルの野太い低音を響かせる。
そう、YOKOHAMAにはJAZZがよく似合う。
ふと見上げた街並み。昔ながらの商店がならぶその歩道には、申し訳程度の日除け屋根が、歯抜けのようにいまも残っていることに気づく。
つぎつぎと襲ってくる「再開発」という津波は、ここ「ちぐさ」にもとどこうとしている。野毛、宮川、日の出、福富、長者町。まつろわぬJAZZ、おもねることのない調べがきょうも遠くに聞こえる。
 
「あれ?どしたの、これ。」
 宙に浮かんだ百円玉をひらひらさせながら、ぼくはマスターにきいた。
「壊れた。」
マスターはバツが悪そうにこたえる。
 時代を感じるこの大きなジュークボックスがこの店の名物なのに、それが使えないとあって、心なしか店内も寂しげだ。ぼくは百円玉をポケットにしまうと、カウンターにもどった。レモンを切る、うつむくマスターのリーゼントはきょうもきまっている。
「で、どうするの?」
 マスターは顔をあげると独り言のように吐き出した。
「修理に25万かかるっていわれてさ。んなアホな、だよ。」
 そういってカウンターの隅を指さした。キャンベルのスープ缶になにやら書かれた紙がついている。
「修理代のカンパよろしくな。」
 ささと手を拭うと、目の前にジントニックを置いた。「HOPE」のジントニックはレモンハイみたいな味がする。
 ぼくはそれを持ってキャンベル缶の能書きを読む。そしてマスターに見えるように千円札をいれた。
「じゃ、ひとつやってよ。」
 マスターはニコッと笑うと、カウンターからでて、店の奥にあるアップライトピアノに腰かけた。
「音楽だけで食べていければいいんだけど‥。」
すぐ後ろのカップルのそんな会話が聞こえてくる。
 マスターが小さく和音を弾いた。つづいて単音でゆっくりと、あの綺麗なメロディーを奏でだした。
「アルフィー」だ。
 やがて左手が加わってしだいに音が厚くなる。それまでの会話がすぼんで、みなの耳が、オンボロのアップライトに向かっている。メロディーのリフレインをブリッジする即興の間奏が終わると、うしろのカップルの女性が歌い出した。

WHAT’S IT ALL ABOUT , ALFIE ?
IS IT JUST FOR THE MOMENT WE LIVE 

 その澄んだ声に、マスターが振り返って目を細めた。彼女は立ち上がり、鼻から息をおおきく吸い込んだ。
 
 
 

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