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読了

辺見庸の新刊「入り江の幻影」を読了した。灰色の帯には「諸君、戦争である。入り江に地獄の叫びが響く。」と、仰々しくある。

購入したのが、熊本から一時的に帰ってきた八月のなかばだから、この167頁を二ヶ月半かけて味わったことになる。小皿にとった南京豆を前歯をつかってコリコリと喰むように、ゆっくりと、行きつ戻りつ噛みしめた。収録の多くが、唯一の連載であった、雑誌「生活と自治」の「新・反時代のパンセ」からの考察である。つまりすでに読んでいるわけなのだが、なぜかはじめてのように驚き、うろたえる。

たいがいは風呂に浸かりながら読んだ。短く切って、一編ずつをなんども反芻しながら読んだ。残りの頁が少なくなっていたときに、大団円ともいえる吉本隆明について書いた「絶対感情と豹変」に震撼した。そして最後が、思いもよらぬ寺山修司を射抜いた絶品であった。出典をみると映画「あゝ、荒野」のパンフレットからとある。

辺見庸が寺山修司について言及したものがあったろうかと考えたが、あったようななかったようなと、そのあたりがすごくおぼろげだ。辺見は宮城県、寺山は青森県を出自としている。当然なにかしらのつながりはあったろうと思う。しかしそれがなんであったのか、きょう、辺見の寺山修司を読むまで、考えたことはなかった。言い換えれば辺見庸のなかに、寺山修司的なものは含まれないと、勝手に思い込み、誤解していた。
これほど的確に、しかもその中心を射抜くのは、若くから、しかも深く寺山修司を取り込んでいなければ不可能である。

「紊乱は、なぜひつようなのか 寺山修司のいない空無のファシズム」と題された一文は、寺山の本質ともいえる「おもしろさ」「おもしろがらせること」をめぐる、現代への警告と提言であった。
自分の備忘のために引用しておきたい。

『寺山は世に「正義」と「公正」をもとめなかっただけでなく、「平和」をも期待していなかったかもしれない。だとしたら、かれの内心はげんざいのニッポンにニタリとわらって納得しただろうか。とんでもない!かれがどうあっても赦せなかったのは不正義、不公正、差別、ファシズム、スターリニズムである以上に、「つまらなさ」と「おもしろくなさ」― すなわち、軽い巨体で、合法のよそおいでしつこく、民主的にのしかかってくる、一律の扁平な声と風景であったはずだ。』

辺見庸の「入り江の幻影」が、寺山修司を論ずるをもって了としたことの示唆に深く想わざるを得ないまま、ちびりとビールを飲んでいる。


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