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写真三葉

「写真A」

路地でアゲハを見つけた
壁の低いところにとまっている
近くを通り過ぎたが動かない
気になり戻って近づいても逃げない
写真を撮ってみたけど逃げない
さらに近づいても逃げない
でも生きている
触覚が動いている
飛びたくないのか
飛べないのか
飛ぶ時を待っているのか
あきらめているのか

「写真B」

 梅雨空の合間に陽が射して、老いたふたりは近くの公園に出かけた。住宅地のなか、高速道路がすぐ近くを走っているとはとても思えない静かな公園で、こんもりとした木々に囲まれ、汗ばむ暑さも木陰にはいればさっと引いて、すうーっと風が通る。
 大きな木の下でご主人は足をとめた。
「すこし疲れたね。この辺りで腰をおろそうか。」
「あなた、あすこにベンチがありますけど。」
「いいじゃないか、たまにはこうして木の根っこのわきにあぐらを組むのも悪くない。おまえもここに座りなさい。」
 ご主人はいままで額の汗を拭いていたハンカチをさっと広げて、うながした。
「なんだか気持ちのいい日だね。寒暖が寄り添うようなこんな梅雨の合間はいいものだ。」
「そうですね。ほら、あそこ。まだ紫陽花が綺麗に残っていますよ。」
「ああ、ほんとだ。ずいぶん立派な紫陽花だね。」
「写真、撮ってきましょうか。お父さんのバッグにカメラがはいってますから、取ってくださいな。」
「はいよっと。」
 そう言って隣に置いたバッグから小さなデジタルカメラを出した。どうやらカメラマンは奥さんのほうらしい。立ち上がると少し離れた紫陽花のほうへと歩きだした。
「段差があるからね。足元に気をつけるんだよ。」
 ご主人は笑いながら、彼女の背中に声をかけた。ご婦人は見かけによらず、ずいぶんと熱心に、あちらこちらから角度や高さをかえて、紫陽花を撮っていた。しばらくして満足したように、背面のパネルを見ながら、夫のもとに戻ってきた。
「お父さん、ほら、いいのが撮れましたよ。」
「‥‥。」
「あらやだ、ねむちゃったのかしら。せっかくうまくいったのに。」
 ご主人は首を傾けながら、両の手を膝の近くに置いたまま目を閉じていた。しばらくは奥さんも遠くを見るようにして、眠ったご主人の隣に黙って座っていた。さっき撮った写真を一枚ずつ丹念に見返しては、ひとり笑ったり、眉をひそめたりしている。光の加減が変わって、奥さんはパッと顔をあげた。どうやら大きな雨雲が近づいているようだ。
「あなた、そろそろいきますよ。起きてくださいな。あなた。」
 肩を軽く揺すったつもりが、そのままご主人の身体が右にぐらっと崩れ落ちた。どさっという音がして、そのまま動かない。
「えっ、あなた!ねえ、お父さん!あれいやだ。お父さん、お父さん!」
 奥さんは一生懸命ご主人の身体を揺すっていた。
「だれか!だれかいませんか!お願いです。主人が‥。」
 投げ捨てられたデジタルカメラの紫陽花に、大粒の雨がボトッと落ちた。

「写真C」

 以前、そこは線路だった。朝夕となれば電車がひっきりなしに通った。「緑の遊歩道」となったいまも、ときおり、足のしたからゴロゴロと小さな地鳴りがするのは、かわりに地下を走ることになった電車の「ここにあり」の声だ。その音がなければ、よく整備された「緑の遊歩道」は、ずっとこうして自然のままの姿であったかのような錯覚さえ起こしてしまうだろう。
 両側に植えられた木々や背の低い雑木にまざって、ちょっとした区画には市民ボランティアによる花壇も、細長い遊歩道に彩りを添えている。
 この季節は、地下からの振動と音に驚いたミミズたちが両側に盛られた土のなかから這い出してきては、一見すると砂利道のようにみえるコンクリートの道で、あるものは踏まれ、あるものは力尽きたまま干されて、あちこちに黒い線を作っている。絶えてまだ間もないものには、小さな茶色いアリたちが無数に群がっている。アリたちは、ミミズを食べているのだろうか。どこかに運ぶ様子もない。水分を多く含んだ肉を、その小さな顎ですするようにして噛むのだろうか。

 「緑の遊歩道」には、陶器でできた丸い椅子があって、そこでよく道路工事や駅前の警備のひとが、制服に着がえている。粗末なリュックと、お世辞にもきれいとはいえないクツが、なぜかみなに共通している。
 見かけるときは制服の上着のボタンを留めているのだが、ズボンもここで、つまりそれほど多くはないとはいえ、人通りのあるこの遊歩道で着替えるのだろうか。頃合いをみて、ささっとズボンを下ろす姿を描いてみる。昨今の不寛容さのなかで、通報などされやしないかと、すこしドキドキする。

 日中、ときどきすれ違った、痩せたおじさんのことを思い出す。ボロボロのクツに、サイズの大きいズボン、小さい身体は猫背に歩くことで、もっと小さく見えた。
 おじさんはいつも犬を連れていた。ボロ雑巾のような犬だった。おじさんと同じで、痩せて、疲れて、汚れていた。いつも一緒だったのだけれど、あるときから、おじさんだけになった。なんとなく、あの犬は死んだんだなと思った。おじさんも、心なしか寂しそうだった。そのうちおじさんも見かけなくなった。

 わずか数百メートルの自然。つきあたりは駐輪場になっている。延長線上に歩いていけば駅に着く。そこでは大きな都市計画が進んでいて、ずいぶんと高い建物がたつらしい。なんでも「緑の都市計画」と銘打っていて、自然豊かな駅前ができるそうだ。
 白い塀の上から突き出したのっぽの重機が何本も空に向かって伸びている。ひと区画まるまる掘り起こした土のなかから、大量のミミズがからみついた塊が、大きな岩のようにゴロゴロとでてきたらしい。
 白い塀の前に立っている警備員のおじさんに聞いてみた。
「痩せた犬と痩せたおじさんも、ミミズの塊と一緒にでてきませんでしたか?」
 今朝がた、遊歩道で首尾よくズボンを履き替えた警備員さんは、なんのことかと言わんばかりに、ぐうっと左に首を傾けた。その拍子に帽子が落ちて、帽子のうらに隠していた写真が丸見えになった。
「あっ。」
 ぼくは、なんだか悪いことをしてしまったようで、そそくさと白い塀をあとにした。「緑の遊歩道」を、うつむいて足早に歩きながら、「ここは都市でも自然でもない。ただの穴だ」と、無意識がつぶやいていた。


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