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イノベーション

今年に入っていわゆるえらいひと、大学の総長やら、大企業の取締役などが、特に若い人に向けてメッセージを伝える機会に立ちあうことがなんどかあった。やはりいろいろと勝ち抜いてきたひたたちだけあって話の内容はおもしろく、ことばにもそれなりの重みがある。

壇上のえらいひとたちはみな一様に、これからを担う若い人たちには「イノベーション」を起こしてほしいと結ぶ。決まり文句のようだけれど、いまある閉塞したこの国の社会状況を根本から打開する変革や改革、そして独自性のある新しい基軸を強く求めていることにうそはないだろう。

ぼくも大いに賛成だ。けれどもなんか矛盾していやしないかとも思う。クレームを恐れ、ある一定の範囲を越えることを嫌い、リスクを周到に回避することに腐心する事勿れ主義が常態化している社会では、「イノベーション」が起きる芽はそうそうにつぶされている。
社員にSNSで発言することを禁じ、議論を封じ、表現することをさまたげる言説が横行しているのはだれもが知っているはずなのに、そのトップにいるひとたちは、次世代に「イノベーション」を強要する。それを命じられた若いひとたちにとっては、拷問にちかい二律背反だ。

戦後日本の成長がとまって三十年が経つ。成長はいつか止まるものだ。その先には成熟が待っている。しかし成熟する努力をあきらめ、美しい日本、偉大なる日本の幻影とうそにおぼれながら身をやつしてきたその結果が、この閉塞社会ではないか。なによりも「イノベーション」を厭い、大事が起きないようにとチキンな権力を奮い、利権を囲い込むことに忙しかったのはいったいだれなのだろうか。

若い人たちに「イノベーション」を求めるのなら、「イノベーション」を助ける土壌を整備することこそ、いの一番にやらなければならないだろう。そうでないと、若い人たちはこれまで同様、「イノベーション」らしきものをうすら笑いで演じてみせることしかできない。順番を間違えてはならない。
リスクを背負う気概と失敗に寛容である社会。言いたいことが自由に言える空気と議論を重んじる社会。ひとりひとりがそういう社会を作る気概を育てる教育がないことには、くちさきだけで多様性だの変革だとの、かっこつけのインチキな看板を立てても、そんなものはなにもなりはしない。

まずは「イノベーション」を口にしたひとたちから、現在の「イノベーション」をさまたげる社会構造をイノベートしなければならないだろう。今国会での入管法改正、LGBT法案などの幼稚な議論を目の当たりにして、それをなしくずしにやりすごす姿を晒してもなお、次世代にイノベーションを押し付けるのはなかば犯罪のようにも映る。

壇上にいるえらいひとたちが率先してやらないといけないと思う。若い人たちを導き、守るべき大人たちが強い責任とリスクを背負わないといけないと思う。まずは閉塞と腐敗の元凶である一党独裁の政治体制を変えたらどうだろう。えらいひとのありがたい話を聴きながら、そんなことを思ったりする。

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