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バチェラー5 #ストールンローズおかわり

はじめに

下記のepi04-06視聴後レビューでストールンローズについて長々と5,000文字書いたのだが、また少し思ったことがあったので残しておきたい。

気になったのは、Xで目に留まった「あの場に周典氏や大内悠里氏がいたら、結果が違ったのでは?」という感想だ。私もこれには同意なのだが、では、「メンバー次第で結論が変わってしまう議論とは、一体何なのだろうか」と再度考え込んでしまった。

それは結局、あれが評価軸の明確な議論などではなく、ヒエラルキー上位者の有り様次第で、いくらでもゴールポストが移動してしまう見かけだけの”話し合い”に過ぎないことを認めることになるのではないだろうか。

支配するのは空気

仮に、周典氏が竹下理恵氏を目で殺せば「譲ってきた人生」とやらが発揮されたのだろうか。大内悠里氏が「悲しい顔しないで」と同情すれば、「月田侑里氏どうぞどうぞ」の空気に持っていけたのだろうか。そうかもしれない。話し合いとはそういうものだとも、それでいい側面もあるのだろうとも思う。ただ、どうしても引っかかるのは、価値観の一貫性のなさだ。それが属人でいいのかと、私は思ってしまうのだ。おそらく私が論理を重視するのも、より普遍的で公正な評価基準を求める故だと思う。ただ、いつも論理が正しい訳ではない事も知っている。

鈴木光氏は感情の多寡を評価し、周典氏が論理的整合性を評価し、感受性の強い大内悠里氏だけが月田侑里氏の感情を発見することがあったとして、声の大きい人任せ&運任せの会議進行はなんだか頼りない。それぞれが持つ価値観に優劣や是非はないので、少なくとも会議の前にどの評価軸で結論に導くかの合意を取っておくべきだったのではないかと今は思う。「論理と熱量のいずれを優先して納得とするか」という前提があれば、闘いに必要な武器も変わってくる。マジョリティである外向型には当たり前でも、内向型には「感情を使う」ということが想定できていない場面は多い。

そして、竹下理恵氏と月田侑里氏以外の者は、自分達がまるで絶対の正義を司る裁判官のような振る舞いをしていたが、その実は、己の価値観でいくらでも評価を変えてしまう陪審員の動きであった。

勘違いしないでほしいが、私は別に誰も責めていない。当事者であるが故に無自覚であっただろうし、私も数日寝て考える時間があったから少し分析できているだけだ。

感情の多寡を量る

さて、今度は話を大元に戻して、鈴木光氏が望んでいたであろう「熱量」でもって適正者を選定するとした場合だ。私はこの考え方もショーの趣旨にあっていて相応しいものだと思う。ただ、その熱量の量り方とやらは、やっぱり属人の主観になってしまうのだろうか?という疑問が残る。彼女が「ある」と思えばあることになり、「足りない」と思えば足りないとされる。しかし、より感受性が豊かな大内悠里氏であれば「ちゃんとあるよ!」になるのだろうか。それでいいのだろうか。

感情は数値化できないので、まぁそういうものだとも理解している。しかし、私があの場にいたら、自惚れかもしれないが月田侑里氏の感情を竹下理恵氏と同等に評価していただろうと思う。内向型の感性とはそういうものだからだ。竹下理恵氏のような派手さはないが、彼女の表情と慎重な言葉選びから真剣さがちゃんと伝わる。

ここで私が言いたいのは、感受性が強い弱いという話ではなく、互いに「自分の価値基準だけで判断していないだろうか。見落としていることがあるのではないか」という己への疑いを持って他者を見つめる視点の重要さだ。自分に馴染みのある表現でなければ「ない」ことになるというのは、とても危ういことだと自戒も込めて思う。

感受性の強い方だけに求めてしまうのも心苦しいが、そういう方は、やはりとことん世界を見つめなければならないだろう。あなたが見落としてしまえば、もう他の誰にも見つけられない。

齟齬

ここまで書いてきて思ったのだが、論理重視派は、あの場を「議論」と捉えていたし、感情重視派は「感情と思考のキャッチボール」と考えていたのだろうなと思う。感情派は「納得」を求めていたが、論理派は「正当性」を求めていた。「会議」の捉え方にそもそも齟齬があって面白い。

感情派は「感情を見せろ。熱量を見せろ」と言うが、論理派は「論理的整合性を示せ。熱量とはテンションだけを主観で量るのか。それがあれば矛盾があってもいいのか」と思っている。また、論理派は政治力や感情の影響を軽んじているのも戦略ミスだったと思う。

いずれにせよ、ストールンローズ制度の導入は、対ガールズへの営業を怠ってはいけないという訓戒になった。以降のシーズンでは闘い方もまた変わっていくのかもしれない。

内向型は演技力を

感情が出にくい内向型は、小賢しいし小っ恥ずかしくて嫌だろうが、ある程度演技力を付けたほうがいいと思う。限られたリソースのなかで行われる世の中の”話し合い”はだいたいあんな感じなので、聴衆に訴求できなければ勝てない。月田侑里氏が俯瞰で論を述べる様子は、どこか他人事のようで熱量を感じにくいのも確かだ。あれを評価できるのは、真剣になるほど冷めていくことを体感として知っている者ぐらいなので当てにしない方がよい。まずは、視線と声の抑揚あたりを強化するだけで大分違うのではないかと思った。私の演技力?さっぱりありませんがな。

おわりに

あてもなく思うままにざっと書いたので、唐突だがこの辺で終わりたい。ブログの方も読んでいただければ幸いだ。

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