見出し画像

BuzzFeedが誤魔化すLGBT問題の三論点

先日アゴラに掲載された筆者のエッセイにBuzzFeedが反論してきた。筆者が応答する義理は何もないのだが、せっかくなのでこれを奇貨とし、改めて既存マスコミが伝えないLGBT問題を深掘りしてみたい。

BuzzFeedの記事には三つの誤魔化しがある。ひとつは「トランスジェンダーとは誰のことか」という論争についてだ。以下の図を見てほしい。

画像2

トランスジェンダーというと、世間では生殖腺を除去して男性/女性に性別移行した性同一性障害の人というイメージが定着しているがそうではない。トランスジェンダーというのはアンブレラターム(各種別を包括した総称)のことであり、大きな傘の下には、性別適合手術を必要としないトランス男性/女性、クロスドレッサー(異性愛者の女装家)、女性になった自分の姿に性的興奮を覚えるオートガイネフィリアなどもぶら下がっている。性同一性障害者はその中のひとつのカテゴリーに過ぎない。多くの国では、こうしたトランスジェンダー全般に手術なしでの自己申告による性別移行を認めているのだ。バズフィードは「女湯に入ってくるのは『なりすまし』だ」「シスジェンダーの『なりすまし』はトランスジェンダーではない」と主張するが、性自認が男性の女装者もトランスジェンダーだということを意図的に隠しているように思える。だから生得的女性たちは、不安に駆られて夜も眠れないのだ。まずはトランスジェンダーの範囲を確定してほしいと生得的女性たちは何度もジェンダー学者にお願いしたが、「トランスジェンダーを定義づけること自体が差別。運動を分断することにつながる」と彼らはいつも口を濁す。

こちらの画像をご覧いただきたい。

画像1

これは今年1月に行われた東京都千代田区議補選に立候補したあたらしい党の公認候補の選挙ポスターだ。彼は「フルタイム女装のシスヘテロ男性(三児の父)」といいながら、一方で「LGBTs当事者」を名乗り、女性専用車両や女子トイレを利用している旨をTwitterに投稿し批判を浴びた。だが日本学術会議の提言通り、現行の性同一性障害特例法を廃止して、手術を必要条件としない性別記載変更法が新たに成立すれば、彼のような身体に拭い難い違和感があるわけでもない異性愛者までもが望めば法的女性になれる可能性が出てくる。なぜなら彼は、世界標準に照らし合わせると、ジェンダー表現においてれっきとしたトランスジェンダーだからである。これは国民が抱いているイメージとはかなり違うのではないだろうか。だからこそ、性同一性障害特例法の再検討作業で必ず出てくる論点だともいえる。BuzzFeedはLGBT議連で手術要件の見直しをすると決めたことはないというが、手術を経ずに自己申請で希望した性別に移行できるのが世界の潮流であり、当事者からの強い要望もある中で、わが国だけが何も審議をしないということは考えにくい。今国会では時間切れかもしれないが、手術要件の撤廃が議論のテーブルに乗っていることは暗黙の了解だろう。国会議員はダイレクトな表現では取材に答えない。声高にそれをしゃべれば騒ぎになり、通るものも通らなくなるからだ。

画像4

さて、BuzzFeedの二つ目の誤魔化しは、性自認と性同一性という用語について当事者や弁護士、支援者、医師を取材したところ、「いずれもGender・Identityの和訳で同じ意味」と認識している人ばかりだったという点だ。本当にそうだろうか。社会学者、石田仁氏のTwitterへの投稿を見てみよう。

画像3

この画像からもわかるように、これまで少なくない研究者が性自認と性同一性の意味論の違いに自覚的だったことは間違いない。臨床心理学を教える佐々木掌子氏の主著『トランスジェンダーの心理学』を読めば、彼女の性同一性という言葉への強いこだわりを誰しも感じ取ることができよう。ところがバズフィードは自らの論調に都合の悪い事実をなかったことにしていく。

批評家の東浩紀氏は、リベラル派による歴史修正主義が台頭してきたことに警鐘を鳴らす。米ハンナ・アーレントセンターが『ドイツのための選択肢』という極右政党の理論的指導者マーク・ヨンゲン氏を招いて講演させたところ、「極右に言葉を発する場を与えることは彼らを利することになる」とリベラル派から猛攻撃された事件があった。本来であれば自分とは反対の立場の人にも言論の自由を与えることがリベラリズムの要諦だったわけだが、「自分の意見と反対の人にもチャンスを与えるというのは悪しき相対主義であり、そんなものはリベラリズムであったためしがない。言論の自由というのは良き市民社会を守るための手立てなのであってレイシズムや極右は排除すべきものなのだ。昔から、そうしていたのだ」と従来の研究の積み重ねが書き換えられようとしているのだ。「これは大変怖いことだ」と東氏は懸念する。

このようなリビジョニズムはフェミニズムの分野にもある。オンラインでの開催となった今年の東京レインボープライドは、『LGBTQを知る15選』と題した動画を配信している。その中の一つ、クィア理論を専門とする東京大学の清水晶子教授の講義を見た武蔵大学の千田有紀教授は、率直な違和感をFacebookに書き連ねている。清水氏はフェミニズムとは制度を問う議論だと解説し、第二波フェミニズムの標語として「個人的なことは政治的なこと」を紹介する。しかし千田氏は、第二波フェミニズムの特徴は、「私」から出発するが決してすぐには制度の問題にいかなかったことにあり、「個人的なことは政治的なこと」ではなく「個人的なことは政治的である」というのが普通だと述べる。そして「自分はフェミニストではない」といっていた清水氏が、最近はフェミニストを名乗るようになったことも訝しがる。かつて千田氏は雑誌『現代思想』において、生得的女性を攻撃するトランスジェンダーを諫め、トランスジェンダー問題については私たち全員が一度立ち止まって考える必要があると問題提起した。ところが「それはバックラッシュだ」とSNSで総攻撃に遭い、たまりかねてTwitterのアカウントを削除した。その後、メディアでは、トランスジェンダリズムに影響を受けた学者の発言力が高まっていったと筆者は感じている。

三つ目に指摘したいBuzzFeedの誤魔化しは、「差別とは何か」についてだ。日本のLGBT活動家は「自分が今日から女性だと言えば女湯に入れるようになる」という言説をトランスフォビアだと批判するが、国際標準ではこれを認めないことが差別とされる。トランス女性の女湯問題はリベラリズムの限界を考察する上での教科書にもなる。内と外の間に線を引き、内側には差別なく再分配するのがリベラリズムの原理だ。我々は、戸籍上も女性となった人を男性器がついているという理由だけで女湯から排除する「差別を内包した国家」を選ぶのか。それとも、戸籍上も女性となった以上は男性器がついていようともあらゆる場面で生得的女性と同じ権利を行使できる「差別のない国家」を選ぶのか(トランス男性の場合も同様)。学者は牧歌的に「未手術の人は事業者が判断して銭湯に入れなければいい」というが、それは差別国家を容認していることと同義だ。議論を尽くした末に「一定程度の差別は仕方がない」と国民が諦念を感じながら意識的に選択するならまだしも、LGBT活動家や学者は問題点から目をそらさせ煙に巻こうとしている。国民が知らない間に前者の法律が決まってしまえば、私たちは自己決定したわけではないのに差別をする側の人間にされてしまう。だから多くの生得的女性たちは悩み苦しんでいるのである。

以前トランス男性が起こした『法律上も父になりたい裁判』は最高裁で勝訴した。人工授精で出産した妻の子どもの父親とは認められないとの行政の対応は間違いであり、戸籍上女性から男性になったからには差別的取り扱いをしてはならないとの判断だった。もし法的に女性となったトランス女性が女湯に入ることを阻まれたとしたら、司法は平等性の観点から同じような判決を降すのではないか。「本物かまがい物か」といった類のジャッジを司法が行い、女性専用スペースへの立ち入りを禁止するとは思えないからだ。でもそれでは生得的女性たちが困ってしまうことも事実。性暴力の心配がよく言われるが、間近に男性器を見ることが恥ずかしいといった「気まずさ」の問題もあるだろう。リベラリズムでは解決できない難題に、我々はどんな説得的理論を構築することができるだろうか。「大人の知恵」という曖昧さに逃げず、とことん突き詰めて思考する胆力が求められている。法律に「穴」がないかを熟考することは差別ではない。差別だと言い募ることで異論を封殺してはならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?