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小僧の神様


神は過疎に宿る。


僕は3人兄弟の真ん中に生まれ育ち、長男としてヒステリックで物静かな3つ上の姉とエキセントリックで野蛮な6つ下の弟に囲まれ、清く優しく愛らしく北海道でも1~2を争う過疎の町、上川郡朝日町で育ちました。

両親は山賊だったので、毎夜色々な方が出入りする家で、いま弊社が掲げているDIVERSITY MAKE US BETTERを体現する環境な毎日でした。怪しいお風呂器具を売り歩く男、スキージャンプのメダリスト、右肩を執拗に下げて盃を持つ教育者、歌の上手いタバコ臭い女、承認欲求の高すぎる元スタイリスト(インスタBANなう)、彼らの下品な笑い声や時にグラスの割れる音と共に飛び交う怒号を子守歌に眠りについたものです。僕の酒宴の席ヘイトはそこにあるのかもしれません。



今夜はすすきの、いってきますいってらっしゃい!


そんな日々でしたが、たまに外食にも連れて行ってもらいました。まあ、その数も普通の家庭と比べれば多かったと思います。町内にある焼き鳥屋、スナック、焼き肉屋、ラーメン屋等、それはそれは僕にとって「ハレの日」の食事で、そこでの経験が弊社のせいふう舘事業(https://www.seifu-kan.jp/)を強く推進していく起源になっていたりします。

その「ハレの日の食事」の中でも僕にとって別格な場所があって、そこは朝日町から20km離れたところにあった、とある寿司屋Aさんでした。

初めてそのお寿司屋さんを訪ねた時、父はもう常連で、僕は小学校に入る前だったようです。朝日町にはないお寿司屋さん。

清く正しく他己愛に溢れた僕は、カウンター席に家族で座るなり、Aの大将にこうオーダーしたそうです。


「おじさん塩ラーメンちょうだい、姉ちゃんのは味噌で」


Aの大将は赤らんだ頬にくりくりっとした瞳を輝かせ、大きな声で「あいよ!」と言ってくれました。山賊だった両親はその時の様子を今でも爆笑して語るのですが、Aの大将は本当に僕にラーメンを出してくれたのです。しかも出前を取ってまで。


「あの時は参ったな~、ここでラーメン食ったのは未だに大介しかいないぞw」とAの大将は生前言っておりました。


あの時からずっと今でも、僕のハレの日の食事の最高峰であり偶像はAです。父が買ってきてくれる寿司折に筆ペンで「大介」と書いてあるのは必ずかんぴょう巻きで、翌朝にあの冷たいけど丁度いい湿り気と甘酸っぱい酢飯に包まれた食感の良い甘いかんぴょう巻きを口に運ぶ度、あのカウンターと大将の子供のような笑顔とラーメンの味を思い出したものです。

妻がいつも「そんなの子供達も食べないのになんで頼むの?」と聞くけど、僕が回転ずしで最後に食べるのは、いつもかんぴょう巻きです。


僕の心に久しく光り続ける神様、長い間、家族共々お世話になりました。
大人になったら注文出来ると思ってた魚の煮つけ、頼めなかったなあ。

ありがとうございました。

とても寂しいです。


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