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ハンナアレント著 責任と判断

ここ1ヶ月近くずっとこの本を読んでいた。
確か、きっかけはジャニーさんの性加害問題を「凡庸な悪」からこの問題に向き合ってみた話を聞いたからだったと思う。「凡庸な悪」を定義し、著者自身がホロコーストを経験した背景からこの道徳的な問題に向き合う内容の本である。

哲学の本などを読んだことがある人は大丈夫かと思うが、慣れない人には少し難しい本かもしれない。(文体は難しくなくシンプル)

この本の最も重要な問いとして
”なぜあんなにも大勢のドイツ社会のすべての人々がナチスと同一化して、あのように殺戮計画に手を染めてしまったのか。”
ということがあげられている。

本当に素晴らしい著書で、この問題に多面的にアプローチしていてここでは書ききれないので私がそのうちの中で根幹とも思ったところを紹介したいと思う。

その重要な点。それは著者曰く”自己との対話”であり、それを放棄した場合に「凡庸な悪」がはびこると書いている。
私が印象的に思った文章とともに少し説明したい。

(ホロコーストの背景をもとに、皆が自分での判断を放棄したのではないかという。それはどういうことか。おそらく自己を放棄したと言えるのではないだろうか。)

本来のあるべき人のあり方を考えたときに。
自分には出来ない、と自分が決めた場合、そのことは実行出来ない。これが自己を軽蔑しないということ。簡単に言えば自分の行動を自分で決めるというシンプルなことである。
自分を軽蔑しないということは、言い換えれば自己と矛盾のない状態であり「自分に嘘をつかない」という自分との関係を表す。この意味で人は例えるなら1人ではなく、内面的なもう1人の自己との契約のようなものなのだろう。
これこそが、自己との対話である。

それは自己との関係の中にしか現れず、他者へ向けることのできることでもなければ他者へ証明することも難しいであろう。著者は確か孤独と表現していたと思うが、どういった表現だったにしろそのたった1人での自己との対話でしか自身の生き方と判断(道徳とも言えるだろう)の根拠は現れないのである。             

自分のしたことは自分が一番知っているという、ある種の究極的な己との禅問答なのかなと思う。良いも悪いも己が知ってしまっているのではないだろうか。

この己が己を背くという痛みを伴わないようにするために、ホロコーストの背景下では自己の判断を放棄し。自分の意思でありません、やらされただけです、知らなかったのです。となったのだろう。

これこそが悪がはびこる背景であり、凡庸な悪なのだろう。

ロシアとウクライナ、イスラエル・パレスチナ問題が現在進行形である今。ぜひ読んでもらいたい。

今一度、自分はどうありたいのか。考えたいなと思う。


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