堺『ちく満』蕎麦と玉子と私
大阪の堺市に『ちく満』という蕎麦屋さんがある。十数年前、ここで私は不思議な蕎麦を食べることになった。
ある時、ニューヨークから一時帰国していた女友達と大阪で再会した。彼女は長いことアメリカに住んでいて、私が働いていたワシントンDCの寿司屋でアルバイトをしていたらしい。同じ時期に働いたことがなかったのだけど、仲間を通して知り合い、初めて会った時からウマが合った。
通天閣を案内してくれた後、昼ごはんをどこで食べようか尋ねた。
「なんしよ…?あ、ちょっと遠いねんけど、幼馴染がやっている蕎麦屋にいかへん?紹介したるわ」
ドラミちゃんのように小さくてふくよかな体型でバリバリの関西弁を喋る彼女は、周りを明るくする存在で、誰とでもすぐに友達になれるタイプ。どんなに落ち込んでいても『生きているだけで、丸儲けやで〜』と言っては前向きにしてくれた。そんな性格だからか、異性だけど男友達のように接してきた。
レンタカーで出発すると30分ほどで『ちく満』というお店に着いた。工場のような外観でまったく蕎麦屋とは思えなかったが、中に入っていみると、広い畳の部屋があって、とても風流な佇まいだった。
「はろ~!儲かってる?こいつな、東京から来てくれてん」
割烹着を着て忙しそうに働いていた幼馴染の娘にざっくりと紹介される。
「じぶん、腹減ってるやろ、なんぼ食う?」
「なんぼって、普通に1人前で十分でしょ」
「ここな、1人前やと1斤っていうサイズやねん。わし、若いころは3斤ぐらい、ぺろり食うてたで」
「斤?パンみたいだな…」
メニューをみると確かに、< せいろそば1斤、1・5斤 > としか書かれていない。どれくらいの量か分からないので、とりあえず1斤と答える。
「ほんまに?足りへんで?まぁええは、足りへんかったらおかわりしたらええ。わしは1・5で」
幼馴染が笑いながら注文を聞き、小走りに厨房へ。
しばらくしてから、お椀に入った玉子と刻みネギをのせた木箱が運ばれてくる。私はせいろ蕎麦を頼んだはずだ。なんで玉子が…。しかも木箱って…。
「ここな、生卵をかき混ぜて食うねん」
蕎麦の入った木箱を開けながら、当たり前のように言う。
えっ?生卵で蕎麦を食べるのか。生卵で食べる物といえば、炊きたてのゴハンを想像する人が国民の9割のはずだ。いや、お金持ちならすき焼きか…。なんでもいいが、目の前には蕎麦と玉子と刻みネギ。『部屋とYシャツと私』ならぬ『蕎麦と玉子と私』なのである。
若い頃の私なら、
「おめぇ~おちょくってんのか!? コラっ!!」
と、大声を張り上げていただろう。
白金辺りの御婦人なら、
「何かの間違いじゃありませんか?」
と、不信感を抱くかもしれない。
最近の政治家だったら、
「蕎麦に生卵を出すとは、極めて遺憾であります」
と、言うに違いない。
頭の中は完全にフリーズ状態。思考回路が止まってしまった。
「ええから食うてみ」
はっとした私はふたたび現実に戻される。
まずはTKG(タマゴ・カケ・ゴハン)の要領で殻を割ってグルグルとかき回す。(この時点で蕎麦を食べるモードにならない)
そして徳利に入ったつけダレを注ぐ。(この時点でもまだここに蕎麦を入れようとは思えない)
ここからが、現実と非現実の狭間である。恐る恐る、震えた箸先で蕎麦を入れる。(この時点はもうやけくそになる)
「ズルズルズル~」
柔らかめの蕎麦と生卵が口の中でシンクロするではないか。でも、いいのか?こんな食べ方をして。ひっそり悪いことをしているような、罪悪感。出会うはずのなかった二人が不倫してしまうような、いけない気分。どう表現したらいいかわからないけど、刑法に触れていないのなら捕まることはないだろう。不思議な蕎麦の味。これは、まさにTKS(タマゴ・カケ・ソバ)である。
「うまいやろ? おかわりするか?」
二つ返事で1斤追加してもらう。
「生きてて、よかったやろ」
そう言ってガハハと笑う彼女の姿を見て、一生友達でいたいと思った。
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