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完璧主義をやめれば、障害があっても生きやすい~高次脳機能障害の場合~

脳卒中や交通事故などで、脳の一部を損傷することで、言葉や記憶、感情といった人間が持つ高度な機能に障害が出てしまうことがあります。外見は元通りなのに「なんだか変な人」というレッテルを貼られて、その人が“生きづらい”状況に置かれていることがあります。それを解決するヒントは、実は、だれにでも関係のある社会のあり方につながっています。
大同病院 高次脳機能障害センター長の深川和利医師にいろいろお話を聞きました。(2024年2月28日配信 #完璧主義をやめる

高次脳機能障害とは?

イズミン まず「高次の脳機能」とはどんな機能でしょうか。

フカガワ 脳にはいろいろな機能がありますが、中でも、考えたり判断したりする機能をいいます。運動や感覚などの機能をコントロールするよりも高い次元の機能という意味で、「高次」という言葉を使用しています。一般的には「認知機能」と考えてよいと思います。
 では「高次脳機能障害」でいう「認知機能」とは何かというと、具体的には①記憶力②注意力、それから③「遂行機能」と申しますが判断力、考える力ですね。その場で考えて、臨機応変に行動する、要領よく段取りよく動く機能です。それから④社会的行動、対人関係を司る機能です。

イズミン それらが障害されるとどうなりますか?

フカガワ 高次脳機能障害というのは、ケガや病気で脳が損傷され、いま申し上げたような脳の機能が損なわれた状態です。運動機能がうまくいかなくなって半身不随という症状が起こる場合には「身体障害」となりますが、「高次脳機能障害」では、記憶ができなくなってスケジュールを忘れてしまったり、ものを紛失したり、注意力が低下して集中が続かない、不注意なミスが頻発して仕事に支障が出る、計画性や判断力が低下して段取りが悪くなる、要領よく作業できない、あるいは人間関係の面で、怒ってばかりで喧嘩して人間関係が壊れる、お金遣いが荒くて生活が破綻してしまう、お昼まで寝て夜中起きてゲームをやってしまい仕事に行けない、といった社会生活上の問題が起きてしまいます。

イズミン 「認知機能」の問題とのことですが、「認知症」とはどう違うのですか?

フカガワ 「認知症」というのはアルツハイマー型認知症など、病気の名前です。だから、軽い状態から症状がだんだん進み、いろんなことができなくなる病気として「認知症」という概念があります。今日、お話している高次脳機能障害というのは「障害」という概念なので、病気そのものではないんですよね。

イズミン なるほど、高次脳機能障害は病気ではなく「障害」なんですか。

フカガワ そうです。高次の脳機能を損傷して日常生活に支障が出てしまっている方を支援しようという「障害」制度です。原因は病気や事故などいろいろで、それで困っている人たちに使っていただくために整備された制度です。
 「認知症」という病気の診断がついたら、その病気に対する施策として国が介護保険制度を利用できるようにしています。手厚いサービスが用意されています。ところが脳卒中でちょっと記憶力が悪くなりましたとか、交通事故で仕事がうまくできなくなりました、という方には認知症の制度はその状況に合わないのです。だから、高次脳機能の症状を「障害」ととらえた制度ができました。
 症状だけみると、認知症の方にも記憶障害が出ます。脳卒中の後遺症の人でも記憶障害が出ます。どちらも同じなのですが、よりふさわしい制度を使うようになっています。

シノハラ 取り扱いの問題ということですね。現象として、病気でも外傷でも同じような障害が出るかもしれないけれど、病気の一症状として取り扱うか、ケガや疾患の結果として表れた現象として取り扱うのかという問題ですね。

フカガワ そうですね。わたしたちは患者さんが制度をうまく利用できるように支援するのですが、現場では、どの制度を使ったらこの人が一番幸せになれるかという発想でやっています。

イズミン 裏を返せば、認知症もいろいろな原因があるじゃないですか。ある年齢、つまり65歳を過ぎたら、例えば事故によって認知機能の障害が出た場合には、「認知症」として扱って、介護保険サービスにより療養することもできると考えられるわけですね。

フカガワ そうです。高次脳機能障害の患者さんでも、症状が重くなると高次脳機能障害の制度では支えきれず、高齢の方であれば認知症の制度を使ったほうがうまくいくことは結構あります。

障害と症状の違い

イズミン 症状と障害は、そもそもどう違うのですか。

フカガワ 記憶障害があります、注意障害があります、これは脳損傷後の後遺症の症状です、という話になります。その症状に対する障害制度としての「高次脳機能障害」です。
 わたしたちは生物としての機能をまず持っていて、その機能を使って走ったり話したり、活動ができるわけですよね。活動ができると自分のやりたいことができます。社会参加ができる、仕事ができる、趣味ができる。趣味や社会参加ができる。すると楽しいからどんどん意欲が上がって、もっと活動ができますよね。どんどん活動すれば体力も上がる、という好循環の中にいます。
 ところがその生物としての機能が、ケガや病気によって低下すると、いわゆる「症状」というものが出てきます。医学的に症状がある状態が生じます。それがあることにより、活動できません、走れません、話せません、あるいは考えられません、といったことが起きます。そうすると社会参加ができませんね。仕事ができません、趣味ができません、勉強できません。そして意欲が低下して、さらに活動できない、活動性が低下して体力も落ちるという悪循環の中に陥ってしまいます。
 だから症状がベースにあって、それがその人の生活を損なう悪循環に陥っている状態。この全体の悪循環を「障害」と呼んでいると考えてください。障害があると、その人は社会から弾かれてしまい、社会参加が難しくなります。そして人が社会の中で一個人として尊厳を持って生きるということが損なわれた状態が生まれます。つまり「症状」はあくまで生物学的な個体の問題、「障害」は社会の中の個人が置かれた状況、と考えていただくのがいいと思います。症状は医学的、生物学的な概念、障害は社会的な概念であり属人性はないのです。

シノハラ われわれが住んでいる社会によって、考え方とか文化も違うわけですけど、その社会において、どのように障害を取り扱っていくかということが極めて大事ですね。

フカガワ だから、ある社会では障害になってしまうことが、ある社会では障害にならないということも起こります。つまり「障害は社会が作る」そして「障害は社会が解消すべき人権問題」ととらえるのが現代のスタンダードな考え方です。

シノハラ われわれの生きるこの日本社会において、高次脳機能障害に対してどのようにアプローチしていくかっていうことですね。
 「障害」って結局は社会バイアスなので、学校の授業についていけない発達障害とかいろいろいわれますけれど、昔の学校はのんびりしていて、普通の生徒として扱われていた。社会が変わって扱いにくくなった子どもは「障害」になった。起こっていることは一緒なんだけれども、われわれがどのようにその状態をとらえて、社会的にアプローチすべきか、という取り扱いの問題なんですよね。
 症状があって社会的にうまくいかないことを、われわれがどのように認識して、困っている方が生きやすくなるように、問題の解消にコミットメントしていくことが大事ということですよね。

見えない障害を知る

フカガワ 高次脳機能障害についていえば、われわれ一人ひとりが「高次脳機能障害」というものを正しく知ること、これが一番大事ですね。この高次脳機能障害は“見えない障害”といわれています。頭の中で起こっている認知機能の問題なので、外見からはわからないのです。また症状は、ちょっとした物忘れや不注意、あるいは怒りっぽいなど、「だれにでもあり得ること」なので、なかなか「症状」だと見抜けない。「熱が39度あります」なら症状としてわかりやすいのですが、高次脳機能障害の症状から起こる事象は「だれにでも起こりうる現象がやや頻繁にみられる」といった形で現れるので、まわりの人からは症状と気づかれずに、単なる「変な人」にしか見えないわけです。障害が障害として認識されないために、仕事できない人とか、なんか怒りっぽい人だなと思われて、だんだん社会から弾き出されてしまいます。
 実際には脳損傷の後遺症でそういう問題が起こっているにもかかわらず、社会に理解されない、結果的に社会から疎外され、個人の尊厳が毀損(きそん)されてしまうのです。だから、まず社会つまりわれわれ一人ひとりが理解することが必要です。
 「高次脳機能障害」という障害制度ができたのが2006年なので、まだ歴史が浅い。だから社会的な認知そのものが進んでいません。患者さんたちは「理解されないことが辛い」「家族や職場がわかってくれない」とおっしゃいます。ですから、まずこういう現象があるということを、われわれが理解することがスタート地点です。

イズミン ただ障害があるからダメとか、欠損しているということではなく、それはその人の”個性“という言い方がいいのかわからないですが、そういうとらえ方をしましょうっていうほうへは向かわないでしょうか。

フカガワ 障害という状況をどのようにとらえるか、どうとらえればハッピーにつながるのか、という点ですね。
 まず障害を個性としてとらえる考え方があります。これは先天的な障害の場合に当てはまるとらえ方です。発達障害などがその例にあたるかと思います。先天的な障害の場合、障害とされる状況は他の個体との比較として認識されますね。その意味でまさに、その個体の固有の性質である点で個性といっていいでしょう。一方、高次脳機能障害のような中途障害の場合、同一個体内における受傷以前と以後の比較であり、主観的には落差といってもいいのですが、そこが強く意識されている。以前の私と違う私、できなくなった私、という自己認識になる。この場合は現在起こっている苦しい状況を個性ととらえるのは非常に辛い。私の外来でも初診で受診された方に対して、「あなたの現状は脳損傷の後遺症による障害です」とお伝えすると、皆、「うまくいかないのは自分の個性のためかと思って過ごしてきましたが、個性ではなくて障害のせいなんですね!」と安堵し涙される方が非常に多いのです。では中途障害の方は障害をどのようにとらえるとよいのか?以前の私と今の私。これが今日のテーマの“完璧主義”の話につながります。
 ある患者さんのエピソードを紹介します。交通事故の頭部外傷で高次脳機能障害になりました。支援を受けて社会復帰し、復職されたんですよね。毎日仕事へ行って、しっかり仕事をこなしています。しかし「私は事故の前はすごく仕事がよくできました。自他ともに認めるスーパーマンでした。ところが現在の私は、他の人についていくのもやっとです」とおっしゃる。以前のスーパーマンだった自分と今の自分との落差が苦しい、毎日仕事に行くのが辛いといいました。職場は理解してくれて、「それでいいですよ、それで十分ですよ」といわれるんだけど、本人が納得できないんですよね。
 高次脳機能障害の方は中途障害なので、皆さん多かれ少なかれそういう辛さを抱えています。その方は10年ぐらい診ていたのですが、あるとき「先生、私、スーパーマンをやめました」とおっしゃったんです。病気になる前の完璧な自分を、もう自分には要求しない。「私は私のできることを、私のできるペースでやっていくことにしました。そしたらすごく楽になりました。」と。
 仕事に行くのが楽しくなったそうです。この方は、自分の病前の姿をあるべき姿と考え、完璧主義で、そこからはみ出した自分を認められなかったわけですが、完璧な自分という理想像から外れた部分を、排除しない、肯定するという姿勢に変えたら楽になった。
 その”完璧主義“の中に自分を押し込めるのは非常に辛いですよね。だから無理せずに、今の自分を大切にする、肯定する。それができると非常に楽に生きていけると思いますね。そして自分を排除しない人は、他者を排除しない人になれる、それが、だれかがだれかを排除しない、だれもが尊厳を持って生きられる社会につながると思います。

イズミン そういう考え方っていうのは、高次脳機能障害と診断されている人でなくても、完璧主義というか、自分はこうじゃなきゃいけないという幻想を捨てて、脇に置いたら、今の自分を受け入れることができるようになり、ハッピーになれるっていうことですね。

シノハラ 整形外科でも骨が折れて、治療したら全く元通りにその身体機能が回復される方もいれば、完全に戻らないケースもあります。すると当然、ケガをする前はこうだったのに、と思うわけですけど、それを受け入れて、今の自分は何ができて、これをやろうっていうような考え方になるほうが楽ですよね。

フカガワ 人間って、できないところにしか目が行かないんですよね。理想の自分の姿と現在の自分の姿とズレた部分、はみ出た部分にしか目が行かない。自分ができていることって見えないんです。自分の「強み」に気づけない。なぜかというと、できることが当たり前だと思っていて、当たり前のことは意識ができない。できないことだけに目が行って、そこに囚われてしまうっていうことです。それが非常に苦しいですね。

鍵のない檻(おり)を開けよう

イズミン 「こういう自分じゃなきゃいけない」と思い込んでしまう原因の一つが、その時代の社会で作られてきた、例えば学歴や容姿に関する理想像だと思います。それとは違う自分にちょっとギャップを感じてしまうんだと思います。現代は、ジェンダーの問題にしても多様性が認められ始めていますよね。先ほど篠原先生がおっしゃった発達障害の子どもさんの例にしても、ちょっと違うお子さんがいることが普通で、いろんなお子さんがいるよね、ということが社会全体で受け入れられたらいいのかな、と思います。

シノハラ “完璧主義”は、社会が押し付けているとも言えるかもしれないですね。

フカガワ そうですね。結局われわれは「こうあるべき」に洗脳されている。自らを「鍵のない檻」に閉じ込めているのです。道はいつでも開くんですよ。ドアを開ければ外に出られるのに、鍵がかかってないことになかなか気づけないんだと思います。
 社会が強制してくる、ある種の概念からは、実はいつでも自由になれるにもかかわらず、それが理解できていないのですね。私はいつも患者さんに「楽になろうよ」「楽になっていいんだよ」「頑張らなくていいんだよ」といっています。

シノハラ 自分がやりたいことは頑張れるじゃないですか。やれないことは頑張れない。好きでもなくてやりたくないことは頑張れないし、やりたいことは頑張れる。自分がやりたくて頑張れることだけ、頑張ればいいんじゃないかなと思うんですね。好きじゃないことは頑張れないのに、頑張ろうとするから苦しいわけで、好きなことだけ頑張ればいいかなと思うんです。

フカガワ そう、できることだけやればいいんです。できないことはやらないっていう選択肢があるのですが、やはり皆さん無理してしまうんですよね。

イズミン 私の好きな松岡正剛さんが、『フラジャイル』という本を書いています。フラジャイルって弱さ、ヴァルネラビリティ(脆弱さ)とか、キズを負ったとか、何か欠損してるとか、足りないとか、弱いとかそういう意味なのですが、それを肯定しようっていう、そういうキズがあるからこそ、そこから何かが生まれるということは歴史の中にいくらでも例があるんです。脳にキズがある、体にキズがある、どっか欠けている。でもそういう弱さを自分の中で受け入れることによって、それが新しいものを創り出すことにつながっていく可能性があるわけです。そういう概念が世の中に浸透していくといいなっていうふうに思います。

フカガワ 20世紀の巨匠、アンリ・マティスのケースがまさにその好例ですよね。マティスは晩年、重い病気にかかって奇跡的に生還しました。ただ、病気の後は絵筆を持つことが難しくなってしまった。でもマティスは、絵筆は持てなくったけれど、ハサミは持てる、とばかりに、色画用紙をハサミで切り抜いて台紙に張り付ける切り紙絵の手法で新たな創作表現を切り開いた。絵筆が持てないから仕方なくハサミを持った、のではなく、積極的に新たな表現技法を開拓したのです。まさにできること・強みに目を向け、新たな可能性を見出した具体的な例だと思います。今年もマティスの展覧会がありますから、切り紙絵、観ていただきたいですね。


ゲスト紹介

深川和利(ふかがわ・かずとし)
大同病院 高次脳機能障害センター長、脳神経内科医。2006年の制度創設時から、名古屋市総合リハビリテーションセンター高次脳機能障害支援部にて、多くの患者さんとともにそれぞれのハッピーな人生をめざしてきた。2018年より大同病院で勤務。
「50シーンイラストでわかる高次脳機能障害『解体新書』」(メディカ出版 2011年)など著書多数。


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