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【コラム】 日立風流物

昔は宮田風流物と言われ、元禄8年(1695)徳川光圀の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが造った山車を祭礼に繰り出したのが始まりと言われています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間からとのこと。

日立風流物の特徴をなすからくり人形は、人形浄瑠璃の影響を受け、村人たちが農作業のかたわら工夫を重ね、人形作りの技術を身につけました。

4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人たちの大きな娯楽となり、競い合いもあって、明治中期から大正初期にかけて大型化します。

昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼、1台が半焼、人形の首も約7割を焼失しました。

郷土有志の宮田風流物保存会(現在の日立郷土芸能保存会)初代会長根本甲子男氏らの努力で昭和32年に茨城県無形文化財の指定を受け、翌年1台だけ復元、21年ぶりに公開しました。

昭和34年に北町の山車が国指定重要有形民俗文化財になります。山車の製作から屋形の展開操作、人形の製作とあやつり操作、山車の運行、鳴り物演奏など、すべて氏子の手によって行われるところに民俗文化財としての価値が見いだされたのでしょう。

昭和41年までには残り3台も復元され、昭和49年には天覧公開を成就し、昭和52年に4台ともに国の重要無形民俗文化財に、平成21年に「京都祇園祭の山鉾行事」と共にユネスコ無形文化遺産に登録されました。

7年に一度の神峰神社の例大祭と、毎年春のさくらまつりでの公開を通して大切に受け継がれています。

◎形態
山車は、大きな山を背にした城郭の形をしており、一層には大手門を、最上段の五層には天守閣を備えています。山車の正面を館といい、中央より左右両側に割れ開く仕組みになっています。また、三層以上五層までの各段はカグラサン(綱で巻き上げるエレベーターのようなもの)によってせり上がり、左右に割れて開きます。操作はすべて綱によって行われ、館が五段の雛段となり、操り人形芝居の舞台となります。館での人形芝居が終わると舞台は回転し、裏山において別の人形の芝居を上演。これらの芝居は無言劇で鳴物の囃子によって演ぜられます。

◎大きさ
高さ:15m、幅:下部2m・上部4m(開くと9~10m)、奥行:8m、重さ:5t

文=福地 伸

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