大煙突とさくら100年プロジェクト

100年前、日立では銅山の煙害問題を住民と企業が協力し解決しました。 大煙突とさくら1…

大煙突とさくら100年プロジェクト

100年前、日立では銅山の煙害問題を住民と企業が協力し解決しました。 大煙突とさくら100年プロジェクトは、100年前の大煙突とさくらの物語を起点に日立のワクワクする未来を創る活動を進めています。

マガジン

  • 大煙突とさくらのまち読本

    日立のまちの大切な記憶である「大煙突とさくらの物語」を思い出し、日立の未来を考えるためのベースとなる冊子『大煙突とさくらのまち読本』を2023年3月に発行しました。 このマガジンでは、その内容を順次公開していきます。

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目次

はじめに 主な登場人物 大煙突とさくらのまち 歴史を知ること/私たちの暮らすまちの歴史/日立の山に大煙突あり/大煙突はまちづくりの原点/桜塚にさくらのまちの原点をみる/大煙突とさくらは未来をつくる 日本最古の地層から宝が出る山 日本最古の地層/日立の山での鉱山開発 別荘地だったまち 常世の国/常磐線の開通/別荘地としての発展 日立鉱山創業 久原房之助、秋田の小坂鉱山を再生/日立鉱山創業/日立鉱山発展の要因 【コラム】銅ってどんな金属? 【コラム】銅鉱石から銅

    • ひたちの桜の名所

      日立駅から共楽館界隈を中心に、ひたちのさくらの名所をまとめました。 さくら祭りのときに角記念市民ギャラリーで配布する「ひたちさくら巡りマップ」を補うものとして作成したので、距離と時間は角記念市民ギャラリーからのものとなっています。 日立駅から角記念市民ギャラリーまでは、1km弱、約15分です。 ※「ひたちさくら巡りマップ」は、以下からダウンロードできます。 https://www.dropbox.com/scl/fi/9w37keah1p6e60qaf4kiu/.pdf?r

        • 編集後記

          「日立のまちの大切な記憶である「大煙突とさくらの物語」を思い出し、日立の未来を考えるためのベースとなる冊子をつくりたい」という思いから、この冊子の制作を呼びかけました。 編集委員として参画してくださったのは、行政、企業、市民という多様な立場で日立のまちのために活動してきた方々です。一昨年の秋から、日立のまちのことをお互いの経験を踏まえて語り合いながら、月1回の打合せを重ね、原稿を書き、検討し合って、この冊子ができあがりました。 自分たちのまちは本来どんなまちで、どんな可能性が

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        • 大煙突とさくらのまち読本
          34本

        記事

          おすすめコース:実際に歩いてみよう!

          共楽館から大煙突ビューポイントへ 共楽館(現・日立武道館)は、常磐自動車道日立中央IC手前にある、大きな赤い屋根が印象的な建物です。日立鉱山で働く労働者と家族の娯楽施設として歌舞伎座を手本に建てられました。芝居小屋としてだけではなく、映画が上映されたり、相撲の巡業が行われたりと、鉱山で働く人だけでなく、日立市民の憩いの場として賑わっていました。 共楽館を出発点に共楽館周辺の旧鉱山町の雰囲気の残る町並みを歩き、大雄院小学校跡石碑、宮田川沿いのソメイヨシノ並木、鉱山電車軌道跡

          おすすめコース:実際に歩いてみよう!

          より深く学ぶために

          おすすめの本 『ある町の高い煙突』(新田次郎/文春文庫/1978年) 日立鉱山の煙害問題を若い世代の企業人と地域住民が協力し、世界一高い大煙突を建設することで解決した史実を基にした小説。 『天馬空を行く 久原房之助物語』(田中誠・吉成茂/日立市民文化事業団/2007年) 大煙突とさくらの物語を日立鉱山の創業者久原房之助を中心として描いたマンガ。 『惑星が行く 久原房之助伝』(古川薫/日経BP/2004年) 久原房之助の伝記小説。日立鉱山時代以前と以後の房之助の生涯を知

          【コラム】 日立鉱山は都市鉱山へ

          日立鉱山は、大煙突倒壊後は景観から見ると、小坂、足尾、別子のような、鉱山のまちというイメージはほとんどありません。しかし、まだ大煙突は生きています。 日本鉱業は昭和51年(1976)、銅の溶錬を佐賀関製錬所に集中したため、明治41年(1908)から続けられた日立での銅の溶錬に終止符が打たれました。 昭和53年(1978)には、産業廃棄物から有価金属を回収し、残りを無害化して再資源化するリサイクリング溶解炉の操業を開始しました。 現在はJX金属グループとして、非鉄金属資源

          【コラム】 日立鉱山は都市鉱山へ

          【コラム】 日立鉱山の人づくりと教育

          久原房之助は小坂時代から一山一家の理想鉱山を目指し、思想善導、人道主義による従業員養成を進め、日立鉱山創業に際しても、この方針をもとに労働者教育を行いました。 当時の鉱山の労働者は、問題を抱えるものが多く、「赤沢がえりはおっかない」という中で、厳格な服務規則と福利厚生策で従業員の生活改善や合理化を進め、人材養成と文化水準の向上を図りました。 地元にも学校支援、育英資金等の助成を行い、信頼関係を築いています。 日立鉱山夜学校を明治42年に創設。意欲のある優秀な人材に、学ぶ機

          【コラム】 日立鉱山の人づくりと教育

          大煙突とさくらのDNAが現在につながる

          大煙突は日立のシンボル 今から100年以上も前、近代鉱工業発展の時代に、「人と自然と産業の共生」のため、世界的にも先進的な煙害防止の取り組みがここのまちでありました。 155・7mという世界一の高さを誇る大煙突は、先人の志の高さと行動により、山の上に悠然と雲を突き抜けて建てられました。 ふるさと日立のシンボルとして、どれだけ歳月を経ても、3分の1に折れてしまっても、多くの人がこの煙突に寄せる思いは、変わりません。 失敗を恐れず、日本の鉱工業の一試験台として建てられた大煙突

          大煙突とさくらのDNAが現在につながる

          【コラム】 久原房之助のその後の活動

          大煙突が完成した大正4年(1913)以降、久原房之助は大分県佐賀関製錬所、朝鮮鎮南浦に大規模製錬所を建設、どちらも日立の大煙突を越す世界一の大煙突を建てています。 続けて、国内各地の鉱山を次々と買収し、30以上の鉱山を開設、朝鮮の甲山鉱山やフィリピン、ボルネオ等東南アジアの鉱山開発を進めました。 大正6年(1917)には、山口県の周南地区に、イギリスの大工業都市マンチェスターを目指した下松大工業都市計画を発表しています。 造船などの工場を中心にして、下松地域に面積160万

          【コラム】 久原房之助のその後の活動

          【コラム】 日立風流物

          昔は宮田風流物と言われ、元禄8年(1695)徳川光圀の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが造った山車を祭礼に繰り出したのが始まりと言われています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間からとのこと。 日立風流物の特徴をなすからくり人形は、人形浄瑠璃の影響を受け、村人たちが農作業のかたわら工夫を重ね、人形作りの技術を身につけました。 4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人たちの大きな娯楽となり、競い合いもあっ

          さくらのまち日立へ

          市民が植えたまちのさくら 戦前は、主に日本鉱業や日立製作所の手によって企業の社宅や病院など福利厚生施設の周りに多くの桜が植栽されてきました。その流れもあって、戦後も戦災復興事業などで公園や道路、学校などに桜が植えられ始めました。 動物園とさくらの名所として今では市内外から多くの来場者を迎える神峰公園(※1)も、建設が始まった戦後間もない昭和23年(1948)頃は、市の財政難もあり、遅々として整備が進ませんでした。 そこで、地域の住民たちは自らの労力や資材を提供してさくらの

          閉山と大煙突の倒壊

          日立鉱山の閉山 工業都市日立の誕生(原点)、その後の発展において大きな原動力となった日立鉱山は、鉱量の枯渇により、昭和56年(1981)9月30日に閉山し、76年の歴史に終止符を打ちました。 鉱量の枯渇とは、採算可能な銅鉱石がなくなったことを言います。これ以上操業しても赤字が増大してしまうため、やむなく閉山(※1)しました。 最盛期には、8000人もの労働者が働いていましたが、最後に残った195人の労働者は今後の生活に不安を抱きながら最後を見とどけました。 閉山後の本山

          戦災を乗り越え工業都市へ

          工業都市日立と戦災 日立鉱山や日立製作所の発展により、日立市は人口も増え、工業都市として次第に繁栄していきました。しかし、第一次世界大戦後の世界恐慌や、断続的に起こる好不況の波により、その都度雇用が影響を受け、人口が増減しました。 昭和10年(1935)に満州事変が起こり軍需景気が高まると、鉱工業都市日立は急速に好景気へと転換し、やがて太平洋戦争が始まると、軍需工業都市として、生産に追われるようになりました。 従業員が戦地に行った後の労働力不足を、勤労動員による一般人や学

          戦災を乗り越え工業都市へ

          共楽館の建設

          鉱山と地域の共生「共に楽しむ館」 大煙突の完成により、煙害補償金が減少したことで、この機会に鉱山でのインフラ整備が進められました。明治後期から大正初期、各地の鉱山や炭坑などで、労働者のための娯楽施設・劇場建設が活発化していった時代でした。 日立鉱山でも福利厚生施策を進め、従業員の長屋・社宅・病院・学校等の施設充実が進むと、従業員の福利厚生のかなめとして一山一家のシンボル的な鉱山劇場が作られました。 大正6年(1917)2月19日に創建された共楽館は、はじめは大雄院劇場と

          【コラム】 オオシマザクラとソメイヨシノ

          日立鉱山でオオシマザクラが最初に植樹されたのは明治41年(1908)で、試験的に住宅地や街路樹として植えられたことに始まります。 地所係の鏑木徳二、山村次一が煙害で荒廃する日立鉱山の山々へ植林する耐煙木として、伊豆大島の火山噴煙地帯で、硫黄分の多い土地に生息するオオシマザクラの苗木や種子を取り寄せ植林したといわれています。 オオシマザクラは、伊豆半島や房総半島に多く分布し、薪炭用に栽培され、餅桜・薪桜といわれ、野生状態になったといわれています。 日立鉱山の石神農事試験場

          【コラム】 オオシマザクラとソメイヨシノ