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【コラム】 日立鉱山の人づくりと教育

久原房之助は小坂時代から一山一家の理想鉱山を目指し、思想善導、人道主義による従業員養成を進め、日立鉱山創業に際しても、この方針をもとに労働者教育を行いました。

当時の鉱山の労働者は、問題を抱えるものが多く、「赤沢がえりはおっかない」という中で、厳格な服務規則と福利厚生策で従業員の生活改善や合理化を進め、人材養成と文化水準の向上を図りました。

地元にも学校支援、育英資金等の助成を行い、信頼関係を築いています。
日立鉱山夜学校を明治42年に創設。意欲のある優秀な人材に、学ぶ機会を与えて中堅職員に登用する仕組みを作る一方で、学ぶ機会を持たず、読み書き計算や基本的な道徳・社会規範が足りない従業員に学ぶ機会を与える乙種夜学校を設け、従業員全体の質向上の仕組みを作っています。

日立製作所を独立させた小平浪平も、「事業発展は人にあり」を掲げて「徒弟養成所」を開き、産業と社会発展、技術向上を目指しました。その精神は、現在の日立工業専修学校に引き継がれています。

昭和12年(1937)に開設した看護婦養成所は、全国の支山から全寮制で生徒を受け入れ、国家試験を受けさせ、出身地の病院に戻しました。中には日立に残り、県内病院・施設等へ勤務する者もありました。

戦後は社会環境の変化で、温情主義、思想善導型の人づくりから、社会教育や地域社会との協同学習体制へと転換し、芸術・文化、スポーツ交流等の人材交流が進められていきました。

高校教育が普及してくると、鉱山においても採鉱や製錬等の技術を持つ人材確保が至難になり、国の産学協同制度を活用した全寮制の「資源開発学院」を開設。人材確保を図りました。

子弟教育では、教員の確保に師範学校トップを採用、ヤマの学習院と称する学校もありました。従業員の世界各地への転勤が増えると、子弟教育は、どこに行っても通じる人材育成を目標に、スポーツや情操教育・先進的授業を進めました。

地元小中学校、保育園・幼児教育など、地域の教育、人材育成等の支援を行い、特に環境教育、幼児教育などへの支援は、現在でもその伝統が引き継がれています。

久原房之助は下松大工業都市計画中断の際、地元に下松工業高等学校建設を寄付、現在、卒業生の多くが新幹線車両製造や地域の産業人材の中核となっています。

文=大畑 美智子

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