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大煙突の建設、もうひとつのプロジェクトX


大煙突建設を決意

神峰煙道とダルマ煙突の失敗を見て、久原は大煙突の建設こそ解決の手段だと確信しました。かねてより火山が吐き出す煙が、空高く上り、高層気流で拡散して地上に影響を及ぼさないのに気づいていた久原は、最後の手段として大煙突の建設を決意したのです。
煙突計画にはさまざまな反対がありました。本当に高層で煙が拡散希釈され、地上に降りてこないのか。広範囲に煙が拡散し、かえって被害が広がるのではないか。
それらの疑問に答えるためいくつかの実験が行われました。高層の気流の状態を確認するため、神峰山頂上から気球を上げさまざまなデータがとられました。また、久慈川で河床から赤インクを吐き出して拡散状況を調べる実証実験を行いました。このような科学的検証を行った上、いよいよ大煙突の建設が始まります。

大煙突の設計

気球を用いた高層気象の観測や久慈川での煙害予測実験を行った結果、高さ155・7mの大煙突の建設が決定しました。
大煙突の設計は、東京帝国大学土木工学科を卒業して日の浅い、弱冠30歳の宮長平作が行い、現場の指揮は主に工作課技師、尾崎武洋が担うことになりました。
大煙突の高さは155・7m、設地部分の外径は約12m、内径は約10.8m。高さ2分の1までは徐々に細くなり、それより上部では、外径8.18m、内径7.77m、厚さ0.2mです。煙突の壁は、高さ約3分の1までは製錬の高温の排気から煙突を護るため二重構造になっていました。
煙突は、当時は世界第一の高さを有し(※1)(それまではアメリカ、モンタナ州グレートフォールスの製錬所煙突154.2m)、2年後に同じ久原鉱業の佐賀関製錬所の煙突(167.6m)ができるまでその地位にありました。
構造は当時の日本ではまだ実績の少ない鉄筋コンクリート(RC)造りでした。宮長はそれまで石岡水力発電所(北茨城市)建設で鉄筋コンクリート構造物の設計を手掛けており、その経験が大煙突の設計にも反映されたものと考えられます。
日本の超高層建築は、昭和33年(1958)の東京タワー(高さ333m)、昭和45年(1970)竣工の霞が関ビル(高さ147m)がその始まりと言われています。それより数十年前に同程度の高さの構造物が、欧米先進国の設計、技術援助に頼ることなく日本人の手で作られたことは特筆すべき出来事です。
また、高層の建築物の設計において特に配慮すべきは、地震対策です。この問題については、当時の地震学の権威、大森房吉の助言があったといわれています。
鉄筋コンクリートの強さを支える鉄筋は、それまで一般的だった丸鋼ではなく、当時は珍しかった節の付いた鉄筋(異形鉄筋)が用いられました。また、鉄筋の接続には、まだ施工実績の少なかったものの、強度の高い重ね継ぎ手が用いられるなど、当時の最先端の土木技術が用いられました。

大煙突の施工

このように当時としては最新の建設理念と技術の下で設計がすすめられましたが、さらに困難を極めたのは現場での施工です。材料だけを見ても、生コンクリート使用量3500トン、鉄筋量145トン、さらには施工に必要な丸太の足場材3万本等々、その量が膨大なこと、そしてそれらの資材を全国から調達し、現場に搬入するまでのロジスティクス(※2)の困難さなど、それまでの日本の土木工事の中では類を見ない一大プロジェクトでした。
工事のための基地は宮田川沿い国道6号との交差部分近辺(現在の日立市消防本部付近か)に設けられ、ここに資材が集められました。
生コンクリートはセメントと砂と骨材(砂利または砕石)を混ぜ、これに水を加えて作られます。この場所でセメントに川砂と鉱山から発生する砕石を骨材として混ぜ合わせた2貫(約7.5Kg )の荷は、作業員一人ひとりが背負って(※3)現場付近まで運ばれました。そして現場で水(宮田川の流水か)が加えられ、型枠に投入されました。この原料の運搬のため300人の作業員が約3Kmの道のりを毎日2回往復したという記録が残っています。現在なら、材料はコンクリートプラントで混ぜ合わされ、生コン車で現場に搬入されます。これらの記録から機械化以前、人力に頼らざるを得なかった当時の苦労がしのばれます。
大煙突の基礎部分は製錬所から約200mの高さにあります。これに煙突高さ155mを加えた355mの高さまで工事を行うのです。この高さが想像もつかない苦難をもたらしました。工事は、まず基礎部分をコンクリートで作ったのち、その上に丸太で足場を組み、次いで鉄筋を配置し、型枠を組み、足場の斜路を登って生コンクリートを流し込みます。コンクリートの硬化を待って、この一連の作業を大煙突の頂上部分まで繰り返していきます。現在の建築工事ではこの作業を高さ概ね3mごとに1サイクルを1週間程度で繰り返すので、高さ155mの施工には50週(約1年)要することになります。大煙突の建設が着工から竣工まで9ヵ月という記録を見ると、相当の突貫工事であったと考えられます。

建設中の大煙突

足場の組み立ては主に鳶職人が行いましたが、型枠の設置や配筋、生コンクリート運搬打設には高所作業に不慣れな一般の職人や作業員が当たりました。高所という恐怖に加え強風や降雨という自然条件も障害となりました。これらの危険を減らすため、周りが見えないよう足場の外側を幕で覆ったという逸話が残されています。
現在の技術なら、タワークレーンとコンクリートポンプ車を用いて省力化と安全性を図ることができます。技術の進歩のお陰で実感を伴いませんが、材料の搬入同様、施工についても計り知れない先人の苦労がうかがえます。

評価

このようにして大煙突は、9カ月と延べ作業員数3万6840人、総事業費15万円(現在の6億円に相当)をかけて、大正3年(1914)12月に竣工しました。
また、平成5年(1993)の大煙突崩壊後に行われた現地調査報告書によると、78年の経過を経てもコンクリートの劣化(中性化)はそれほど進んでおらず、施工当時の品質がある程度保たれていると記されています。亜硫酸ガスに触れ、強い雨風にさらされてきた大煙突の環境条件を考えると、驚くべきことです。
一般に鉄筋コンクリートの耐久性は、その施工の丁寧さによるところが大きいといわれています。過酷な環境の中で78年というコンクリート構造物としては長い寿命を保てたのは、突貫工事ではあったが手抜きをしない職人の技量と鉱山技術陣の適切な施工管理のたまものでしょう。
ちなみに大煙突が下3分の1を残して崩壊したのは、崩壊部分を境に壁が二重構造から単構造に変化していること、その部分を始めとしてコンクリート打ち継ぎ目のレイタンス(不純物)処理がなされていなかったことによる劣化が原因といわれています。当時は問題とされていなかった施工方法であり、やむをえなかったでしょう。

文=内山 茂身

NHKの番組にプロジェクトXという番組がありました。衰退が見え始めた日本の産業界に、戦後、高度成長期に日本に始まり世界へ広まった優れた技術とそれを起こした日本の技術者を思い起こそうという番組でした。明治43年に製造された日立製作所の国産第1号の5馬力モーターの開発過程は、まさにこのプロジェクトXで取り上げられた数々の技術開発に先駆けるものでした。明治以降、外国の技術に頼らず日本人の手で優れた製品を作り出すことで日本経済と技術は発展してきました。この大煙突の建設も、日本の土木技術黎明期に、世界一の高さを誇る構造物を日本人の技術で作り上げたという点で、日立製作所の国産モーター開発に続く「もう一つのプロジェクトX」といえるでしょう。

(※1)世界第一の高さを有し
グレートフォールスの製錬所煙突よりも高くして世界一にするために、当初の計画よりも煙突を高くしたことで、先端に二重の鉢巻がある、大煙突の特徴的な形が生まれた。

(※2)ロジスティクス
原材料の調達から生産・販売に至るまでの一連の流れを一括で管理するシステムのこと。

(※3)作業員一人ひとりが背負って
生コンを運んだ背負い箱は、ひもを離すと底板がパタンと開き、生コンが落ちるようになっていた。

映画「ある町の高い煙突」制作時に復元された背負い箱

光の部分だけではありません。この工事では不慮の事故で2人(あるいは3人)の作業員が命を落としたといわれます。人命を軽視するものではありませんが、労働災害対策の技術や制度が不十分であった時代に、この数字からは相当程度労働安全に配慮されていたことがうかがえます。

下から約46mの高さまでは二重構造になっていました。

【主な参考文献】
『大煙突の記録―日立鉱山煙害対策史―』(株式会社ジャパンエナジー・日鉱金属株式会社/1994年)
『天馬空を行く』(田中誠・吉成茂/日立市民文化事業団/2007年)

※写真・図は、日鉱記念館、井手義弘氏、宗形憲樹氏からご提供いただきました。

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