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【コラム】 日本の産業史を彩る4大銅鉱山

20世紀初頭にほぼその基礎を確立したわが国の金属鉱業は、日露戦争、第一次世界大戦により、規模を急速に拡大します。特に、足尾銅山(栃木県日光市)、別子銅山(愛媛県新居浜市)に加え、小坂鉱山(秋田県小坂町)、新興の日立鉱山(茨城県日立市)の4つの銅山の発展はめざましく、日本の4大銅山と称されました。
この4大鉱山は、鉱山が存在する地域社会にも大きな影響を与え、鉱山が立地した地域は大きく発展しました。
一方、河川の汚染や大気汚染(煙害)は深刻な被害をもたらし、地域社会の発展と環境破壊など相反する課題を生み、それを解決してきた過程がこうした地域の歴史でもありました。

日本最大の銅鉱山、公害の原点・足尾銅山

足尾鉱山は、明治4年の民営化後、豊富な資金と近代的な経営を導入し、優良な鉱脈の発見と相まって、明治20年代には、国内銅生産量の4割を占め、旧足尾町の人口は3万8428人に達し、栃木県第2のまちに発展しました。
足尾銅山の急速な拡大により生じた問題が「足尾鉱毒事件」です。足尾銅山における鉱害とは、採鉱・選鉱・製錬の過程で発生する廃棄物中の有害物質を含む土砂が、製錬排煙(亜硫酸ガス)により森林が裸地化したことで渡良瀬川流域に流出した問題で、わが国初の公害事件です。
明治24年の第2回帝国議会において、田中正造が鉱害問題に対する質問を行い、やがて大きな社会問題となりました。
鉱毒の溜池として渡良瀬遊水池をつくるため、谷中村を水没させることにし、明治40年、谷中村は強制廃村となりました。
日光市と栃木県は、こうした負の歴史も含めて、足尾銅山を「世界文化遺産」に登録するため、官民挙げての取り組みを進めています。

日本第2の別子銅山、地方創生に産業遺産を活かす

別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山で、住友財閥の発展の基盤となりました。
元禄年間に発見され、1973年までの283年間で65万トンの銅を生産し、日本の近代化に大きく寄与しました。足尾銅山の82万トンに次ぐ日本第2位の産出量です。
別子銅山は山に囲まれた狭隘な土地のため、明治16年に製錬工程を新居浜精錬所に移設しましたが、付近の農作物に煙害による被害が発生したため、瀬戸内海の四阪島に製錬所を移しました。しかし、被害は減るどころか、むしろ汚染地域が拡大します。明治43年、煙害賠償金の支払いと農作物の生育に重要な期間10日間の操業停止が住友側と住民側で合意され、昭和14年に脱硫装置が完成するまで住友は莫大な賠償金を支払い続けました
一方、明治27年大造林計画に着手。別子山中での焼鉱や製錬を止め、薪炭を石炭燃料に代えることを決定し、山々に毎年100万本以上の植林を開始。最盛期には年間200万本を植林しました。
新居浜市には、社宅など生活の場も含めて幅広い産業遺構群が現存します。新居浜市では、「別子銅山文化遺産課」を設けて、この産業遺産を守り地域の魅力発信に活かし、世界遺産登録を目指しています。

久原房之助有縁の小坂鉱山、観光拠点・都市鉱山として再生

小坂鉱山は、1861年に金・銀の鉱山として開発が始まりました。
銀鉱石の枯渇により閉山に危機に直面していました。そこに派遣された久原房之助は、新たな製錬法を開発。小坂は一躍世界有数の銅鉱山に飛躍し、は明治40年(1907)には銅の産出量が日本一となりました。
1990年で採掘を終了し、閉山しました。2007年、小坂鉱山は「リサイクル製錬」を始めます。積みあげた技術をもとに「TSL炉」を開発。携帯電話やパソコンなどさまざまな機器を分解して資源を回収する「都市鉱山」に生まれ変わりました。

SDGsの精神に通じる取り組みで急成長した日立鉱山

日立鉱山は、新技術の導入や鉱山設備充実の成果によって、明治40年には銅生産量1781トン、明治44年には銅生産量が5670トンとなり、日本を代表する銅山の一つに成長しました。
急速な鉱山の発展によって鉱害問題が深刻化、製錬所から出される排煙による鉱害は深刻で、一時期鉱山経営が危ぶまれるほどでした。
日立鉱山の歴史は、労力・技術力をかけ、必要に応じて先進的な試みを繰り返す「一歩抜きんでる=革新の歴史」であり、現在のSDGsの精神に通じる取り組みです。久原房之助の「理想都市を日立の地につくりたい」との思いが結実したものでした。

文=井手 義弘

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