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フランス人たちと食事したときの会話で詰んだときの話

 フランス滞在中、家にフランス人のお客さんが来たり、またフランス人の家に招かれたりして一緒に食事、なんていう機会がたまにあった。
 自分は前に書いたように、基本的には母の再婚相手のアンドレの家、つまり普通の一般の家に滞在していたので、滞在日数の割には、まあまあそういうことも多かった方だと思う。

 食事をしながら、とりとめもない話をずーっとしていて、お昼から3時間4時間、みたいな感じが普通だった。
 このとき、「フランス人の中に自分だけ日本人が入る」という状況になったりするわけだけれど、彼らはこういう時にあんまり日本人に話題を振ったり、自分に日本のことを聞いたりすることはない。
 どっちかというと、日本人の自分がその場に入っているとか関係なく、「今話したい話」を普通にする。
 つまり、ダンス仲間だったらダンス教室の話とか、今度旅行に行こうと思う話だとか、本当に普段の話である。

 そして、こういう時に気づくのである。

 ぜんっぜん何言ってるのかわからない。。

 今まで、ちょっとくらいはフランス語で意思疎通ができていたから、自分も少しはフランス語で話せるような気分になっていたけれども、いやいや全くとんでもない、勘違いもはなはだしい、あんなの話せるうちになんて全然入っていなかったのだ。

 そう、会話ってやっぱり、「相手に伝えよう」とどれだけ本気で思っているかだ、ということをこういう時に痛感する。
 例えば、会話の中で、「AがBで、Cだ」みたいな話があったとして、仮にBという言葉がわからなくても、AとCが分かればなんとなく意味がわかったり、重要なことだったら聞き返したりすることだってできる。相手だって、こちらに知らせないと不都合があるわけだから、丁寧に説明してくれるし、別にそれによって会話のテンポが乱れるようなこともない。

 ところが、フランス人同士が夢中で楽しいことを話している場にいると、この「わからないB」がどんどん多くなっていく。
 「昨日車でAに行って買い物してB買ったんだ」
 「BといえばCでも売っていてナスとDするとおいしかったよ」
 「BとナスとEとFでGするとHですごくJ!J!」
 「J!J!EのHがIで運転してK・・K?馬だ!」
 「馬じゃないよ!Lでしょ?LでMしてN!」「洗濯機でしょ!ワハハハ」
 みたいな感じである。
 意味がわからなすぎて、気が遠くなってくる。
 耳は必死に今の会話を聞き取ろうとしているのだが、とにかく「わからないこと」が累積しすぎて、思考が止まってくるのだ。脳の中に意味をなさない白いぶよぶよしたものが増殖してきて、どんどん埋められていくような感じである。

 そしてどんどん口を挟む余地がなくなっていって、石のようにアルカイックスマイルを浮かべる、ただそこにいるだけの存在になっていく。
 目の前でみんなが楽しそうにしているのに、そのひとかけらさえも頭に入ってこない。この場で一人だけの悲しみ。空白の笑顔。

 実際、そんな感じでちんまり座っていると、「お前ももっと話せ」みたいな感じになることもある。
 フランス人って、この辺りは日本人とは違うかもしれないけれど、どんなくだらないことにも「他とはちょっと違う視点で自分らしい意見や哲学を述べる」ことが結構徳高い感じなので、意見すること自体は求められるのだ。
 だが、これは外国語がどうとかではなく、日本人同士だってそうだと思うが、せっかく話が盛り上がっている時に、根本的に何もわからないようなことを言って会話に水を差すのもどうかと思ってしまう。往年のプロ野球の話で盛り上がっているのに「グローブってなんですか説明してください」って真っ黒な目で言われても困ってしまうと思う。
 やっと追いついて話そうと考えていたことはもうかなり前の話題になっている。今はこれは何の話なんだ。さんざん逡巡した挙句に的外れなよくわからないことを言ってしまい、わかりやすく気まずい感じに流れが止まる。

 もう悪くしたもので、そういう時に言われる
「あ、ダメだこいつわかってないわ」
 っていう言葉だけははっきり聞き取れたりする。心折れる。

 結果、菩薩のように静かにやさしく見守ることになる。

 そのうち、どんどん会話の音声が遠ざかっていくような気がしてきて、自分を俯瞰で上の方から見ているような、まるで夢でも見てるんじゃないかという気分になってくる。
 村上春樹さんは、この状態を「電池切れ」と呼んでいた。海外に住んでいる方は、この「電池切れ」の症状に共感してもらえるんじゃないか、とおっしゃっていたが、村上さんとは次元は全然違うけれど、気持ちとしてはこれは非常によくわかる。
 一度この状態になってしまうと、もうその日は元に戻すことは困難で、フィールドに復帰することはほぼ絶望的になってしまう。

 日本で、逆の感じだったらどうだろうか。
 例えば、自分が友人の家に遊びに行った。そこには、じゃあ例えば、カメルーン出身の人がいたとしよう。
 でも、そしたら、やっぱり基本その外国から来た方にみんなそれなりに話をする気がする。
 「カメルーンって暑いんですか?」
 「日本食どうですか?」
 「日本人優しいですか?」
 「お仕事は?」
 「この料理お口に合いますか?」
 「こういうお笑い芸人ってカメルーンにもいますか?」
 …というように、友人と旧交は温めつつも、会話の5〜6ラリーに1回くらいはその外国人の方に話題を振るんじゃないかと思う。

 フランスで、自分がそういうことを聞かれたことは数えるほどしかなくて、あるとすると
 「日本人ってバカンスでフランス来てるのに、たったの2週間しか休みがないんだよ!(信じられない!働きすぎ!)」※それでも相当多い
 「日本でこのチーズ(ブリチーズとか)買うとこの1切れで800円とかするんだよ!(信じられない!なに食べてるの?)」※フランスで納豆買えないだろ
 というこの2つのアンドレが言う鉄板ネタくらいのもので、しかもこれはなんかどっちかっていうとバカにされてるだけのような気がする。
 まぁ考えてみるとこの方が健全な気もするが、別にとりたてて興味のないことを話題にする、ということが基本的にないのだと思う。

 ちなみに、この食事のテーブルに、もう一人「フランス語が堪能な日本人」、例えば自分の場合だったら自分の母のような人がいたら状況が変わるかというと、これがあんまり変わらない。
 というのは、その日本人だって会話に夢中になっているからだ。というより、やっぱりフランス人のフランス語と同じようなテンポで話していくのはそれなりにリソースを使う作業で、わからない人を気にかけている余裕があんまりないんだと思う。
 であるし、もっとそれ以前に、座の中で、全然ついて来れない人を救済しながら、それでいて場の温度も下げずに盛り上がったままがんがん回していける人なんて、日本人同士の普通の日本語の会話であったって、そもそもほとんどいないんじゃないだろうか。
 だから、「会話に入れない人を救済しながら回す能力」「全然わからない会話に盛り下げずに入っていける能力」というのは、語学がわかるわからないとはまた別の角度の技術なような気もする。

 自分が今できることとして、もし外国人が食事会で寂しそうにしていたら、せめてなるべく話題を振ってあげよう、そうしよう、と思っている。今のところそんな機会ないけど。

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