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ホビーショップ・アトムの思い出

 「洋光台に寄ってみようか」
 ハンドルを握りながら、弟の未邦が言った。
 洋光台というのは、ぼくら兄弟が小学生時代を過ごした街の名前だ。
 この日、100歳になる祖母の家を、兄弟2人で久しぶりに訪ねた。今はその帰りの車の中である。
 車中で、なんとなくずっと昔話をしていたら、ちょうど洋光台の近くを通りかかった。そこで、弟はそんな提案をしたわけだ。

 冬の夕暮れ、もう暗くなる時間に、洋光台に到着した。
 洋光台は、団地の街である。
 70年代に、横浜の郊外に多くの団地の街が作られた。その一つが根岸線の磯子から2駅先の洋光台だ。
 車を降り立ち、振り返って見た街の風景は、子供の頃見ていたものとほとんど同じである。駅前に広がる団地の佇まいは、石のように変わらない。
 懐かしいような、もう40年も前だというのにこれほど変わらないのが不気味なような、妙な気分である。

 しばらく、駅の周りを二人で歩いてみる。
 街の外観は全く変わっていなかったが、自分の足で街の中に入ってみると、だいぶ雰囲気が変わってしまっていることに気づく。
 駅前の商店街。
 団地に囲まれた中庭にある商店街は、いわゆるシャッター商店街になっている。かつては多くの店がひしめいていてあんなにも活気があったのに、今はみる影もない。
 「ここに文房具屋があったはずなんだけどな」
 「花月堂でしょ。ぜんぜんないな」
 「あとおもちゃ屋があった」
 「おもちゃのまりやね。これも全く痕跡もないね」
 かつての団地タウンは概ねどこもそうだろうが、ひとつ悲しい。70年代に20〜30代で移り住んできた方々は高齢化し、ニューファミリーの新興住宅地だった洋光台の団地も、今はどちらかというと老人が多い街になってしまっているようだ。
 しかし、振り返って夕闇に浮かぶ団地の影。これだけは昔と変わらず、空を覆うように、こちらをただ見おろしている。

 なんとなく、洋光台で昔の思い出の場所を探してみようとか、昔行ったレストランでごはん食べようか、と未邦と話していたのだが、さっぱりそういった昔の痕跡がある店は見つからない。子供の頃と同じ場所に今でもあるのはスーパーと交番くらいである。

 「アトムってまだあるのかなぁ」と未邦が言う。
 アトムとは、ぼくらが子供の頃によく通ったプラモデル屋だ。ぼくらは何しろ生粋のガンプラ第一世代である。お小遣いやお年玉を握りしめてはアトムに向かって走って行った小学生時代だった。
 ぼくらはダメ元で、商店街とは少し別の場所にあるアトムに向かった。
 「あれっ!?アトムあるんじゃない??」
 2階建てのちょっとしたショッピングビルの2階の窓に、昔ながらの「ホビーショップ アトム」の文字が見える。
 ぼくらはせきたてられるように建物の2階に走った。そして見つけた。
 アトムだ。確かにこの店だ。全く変わっていない。
 全く変わっていないと言うことは、急に完全に昭和の模型店が目の前に現れたと言うことだ。崖から落ちたような一瞬のタイムスリップ感がすごい。ていうか逆に入りづらい。
 しばらく店の前を二人でうろうろして、意を決して中に入る。

 店の中は、全く昔のままだが、やや棚ががらんとしているようだ。
 そして、店の奥の方にお店のおじさんがいた。
 アトムのおじさんだ!
 歳はとったけれど、全く昔と変わらない、あのおじさんだ。
 「いらっしゃいませ」というおじさんに、たまらずぼくは声をかけた。

 「あの、ぼくたち小学生の頃に洋光台に住んでて、アトムにすごくよく来てたんです」
 おじさんは顔を上げて、びっくりしたような顔でこちらを見た。
 「そうですか!」
 そして心から嬉しそうににっこり笑った。そして続けてこう言った。
 「でも、実は今月いっぱいでお店閉めちゃうんですよ。跡取りがいなくてね」

 おじさんと、しばらくいろんな話をした。
 ガンプラブームの時は本当にすごかったこと。お店でもなかなか商品を仕入れることができなくて大変だったこと。
 「街の模型屋」は今はもうほとんどなくなってしまったこと。でもアトムは鉄道模型があったので、なんとか続けてこれたこと。
 洋光台の街はだいぶ変わってしまったこと。昔からの店は10年くらい前までにみんななくなってしまったこと。
 こちらは、子供の頃いかにプラモデルに夢中になっていたかを、どれほど胸を躍らせながらアトムに来ていたかを話し、その思い出が宝物のように今でも生きていることを伝えた。

 せっかく来た記念に何か買っていこうと思った。
 がらんとした棚を物色する。さっき、棚にものがないような気がする、と思ったのは、店じまい間際だったからなのだ。
 ガンダムの棚には当時夢中になったファーストガンダムのものは一つも残っていず、自分が見たことのない最近の作品のものだけがいくつか並んでいた。
 結局、何の作品の何なのかは全くわからないが、なんだか可愛らしいフォルムの何らかの最近のモビルスーツのキットを一つ買うことにした。
 未邦は、普通に今使う塗装用のマスキングテープと、もはや価値がありそうなくらい年代物の謎のキューピーの指人形を買った。

 「閉店は残念ですけれど、最後に来れてよかったです。いや、運命ですね」
 お金を払いながら言う。
 おじさんは嬉しそうに笑う。
 「覚えていてくれて、来てくださってありがとうございました」
 プラモデルを受け取る。
 これは。そうだ。小学生の時。これは、あの時と同じ光景だ。期待に胸ふくらませてプラモデルを受け取った、あの瞬間だ。

 40年くらいの時は意外に簡単に巻き戻るものである。そして、それを埋めるピースも案外簡単にそろう時はそろう。おじさんと、お店と、その時の兄弟。

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